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異端の白球使い  作者: R.D
ダブルス編
247/674

亀裂

 インターバル終了のブザーが、私たちの間に流れる、歪で、そして危険な共闘関係の始まりを告げた。

 コートに戻る。セットカウントは1-0。体育館の空気は、試合が始まる前とは全く異なっていた。ネットの向こう側に立つ相川先輩と池田ことねさんの表情からは、余裕は完全に消え失せ、代わりに、私たちのこの、あまりにも不気味な変貌に対する、純粋な困惑と、そして底知れない恐怖の色が浮かんでいる。

 サーバーは、相川。

 彼女は、一度、ごくりと喉を鳴らし、そして、迷うように、揺れる瞳で、私と永瀬さんを交互に見た。

 彼女が選択したのは、どちらともつかない、コースの甘い、回転量の少ないサーブだった。

 そのボールは、レシーバーである私のパートナー、永瀬さんの元へと、力なく飛んでいく。

 永瀬さんは、そのボールに対し、もはや何の躊躇も見せない。

 彼女は、一歩前に踏み込み、その中途半端なサーブを、バックハンドで、まるで叩きつけるかのように鋭く弾き返した!チキータ。だが、それは技術的な洗練さよりも、純粋な「怒り」の衝動に突き動かされたかのような、荒々しい一打だった。

「させるか!」

 相川先輩のパートナーである池田さんが、そのボールに反応し、ブロックで返球してくる。

 3球目を打つのは、私だ。

 私は、そのブロックボールに対し、あえて強打はしない。スーパーアンチの面で、ボールの勢いを完全に殺し、そして、相手ペアの真ん中、二人が最も反応しにくいコースへと、ナックル性のボールを、そっと「置く」。

 それは、永瀬さんの「怒り」を、さらに増幅させるための、冷徹な「布石」。

 案の条、相手は、その処理の難しいナックルボールに対し、苦し紛れの、山なりのボールを返すのが精一杯だった。

 そして、そのボールが、永瀬さんの元へと吸い寄せられていく。

 彼女の瞳が、獲物を捉えた獣のように、ギラリと光った。

「はあああっ!」

 野獣のような咆哮と共に、彼女のフォアハンドが、そのチャンスボールを、相手コートに叩きつける。ボールは、相川先輩のラケットを弾き飛ばさんばかりの勢いで、コートの外へと消えていった。

 静寂・永瀬 1 - 0 相川・池田

 そこからは、もはや試合ではなかった。

 それは、一方的な「処刑」の時間。

 相手が、永瀬さんを狙ってサーブを打てば、彼女は怒りに任せてそれを強引に打ち返す。

 私が回転を無効化し、永瀬さんのための、最高のチャンスボールを演出する。

 そして、永瀬さんが、それを、全ての憎しみを込めて、叩き潰す。

 静寂・永瀬 5 - 0 相川・池田

「なんなのよ、あいつ…!人が変わったみたいじゃない…!」

 相川先輩の悲鳴のような声が、コートに響く。だが、その声は、もはや永瀬さんの耳には届いていない。彼女は、ただ、目の前のボールと、憎むべき相手だけを見据えている。


 私の脳は、冷徹に、目の前で繰り広げられる「実験」のデータを分析していく。

 試合は、ほとんどポイントを失うことなく、進んでいった。

 最後は、相川先輩のサーブが、プレッシャーからか、力なくネットにかかり、あっけなく終わった。


 静寂・永瀬 11 - 1 相川・池田


 試合終了。

 私たちは、勝った。

 だが、永瀬さんは、ガッツポーズをするでもなく、喜びの声を上げるでもない。ただ、肩で大きく息をしながら、ラケットを握りしめ、ネットの向こうで崩れ落ちるように膝をつく、相川先輩と池田さんを、燃えるような、そしてどこか空虚な瞳で見つめているだけだった。

 圧勝。そして、完全なる蹂躙。

 しかし、その勝利の味は、ひどく、鉄錆のような味がした。

 私の「静寂な世界」は、今、パートナーの「怒り」の色で、どろどろと、そして不穏に、染め上げられていた。


 ネットの向こう側では、相川と池田が、崩れ落ちるように膝をつき、呆然と、あるいは悔しさに顔を歪ませて俯いている。もう、私たちを嘲るような視線も、見下すような言葉も、どこにもない。そこにあるのは、完全な敗北者だけだった。

 私たちは、ネットに歩み寄り、形式的に握手を交わす。二人の手は、冷たく、そして力なく、私の手を握り返した。その瞳は、私を見ることを恐れるかのように、固く床に向けられている。

 ベンチへと戻る。部長が、腕を組み、仁王立ちで私たちを待っていた。その表情は、険しい。勝利を称える言葉は、一切ない。

 私は、隣を歩く永瀬さんを一瞥する。

 彼女は、ガッツポーズをするでもなく、喜びの声を上げるでもない。ただ、肩で大きく息をしながら、ラケットを強く、強く握りしめている。その瞳には、先ほどまで燃え盛っていた怒りの炎が、今はまるで燃え尽きた後の消し炭のように、黒く、そして空虚な光を宿していた。

 圧勝。そして、完全なる蹂躙。

 しかし、その勝利の味は、ひどく、鉄錆のような味がした。

 私の「静寂な世界」は、今、パートナーの「怒り」の色で、どろどろと、そして不穏に、染め上げられていた。

 ベンチに戻り、三人の間に、重い沈黙が落ちる。体育館の他のコートから聞こえる、楽しげな声援や、ボールの音が、やけに遠くに感じられた。

「…永瀬。」

 最初に沈黙を破ったのは、部長だった。その声は、低く、そしてどこまでも優しかった。

「…大丈夫か…?」

 永瀬さんは、その言葉に、びくりと肩を震わせたが、顔を上げることはできない。ただ、小さく、そしてか細く、首を横に振った。それが、大丈夫ではない、という意味なのか、あるいは、もう何も考えられない、という意味なのか、私には判断がつかなかった。

 部長は、そんな彼女の姿に、痛ましそうに顔を歪めた。そして、その視線を、今度は私へと、ゆっくりと向けた。

 その瞳には、私の勝利を称える光はない。私の戦術への驚嘆もない。

 ただ、深い、深い憂慮と、そして、人間としての、問いかけがあった。

「しおり。」

 彼の声は、静かだった。

「…お前が、次に何を考えているのかは知らん。だがな、これは、本当にお前の望んだ『勝利』なのか?永瀬を、あんな風にしてまで、手に入れたいものだったのか?」

 彼の問いは、私の思考ルーチンに、直接的なエラーを投げかける。

(望んだ、勝利…?違う。目的は勝利。プロセスは、そのための手段。そこに、私の『望み』という、非合理的な感情が介在する余地はない。だが、この、胸の奥で疼く、鉄錆のような後味は…なんだ…?)

 私は、彼のその問いに、正面から答えることを避けた。それは、今の私には、まだ言語化できない、あるいは、言語化してはいけない領域にある、危険な「ノイズ」だったからだ。

 私は、ゆっくりと立ち上がり、次の試合の組み合わせが張り出されているであろう、掲示板の方へと、静かに視線を向けた。

「…目的は達成されました。パラメータの変動は、許容範囲内のコストです。」

 そして、私は、部長にも、そして隣で俯く永瀬さんにも、背を向けたまま、冷徹に告げた。

「次の試合の対戦相手を確認します。それが、現時点で最も合理的な行動ですから。」

 私のその言葉に、部長が、ぐっと息をのむのが、背中で分かった。

 勝利は、した。

 だが、私たちの間に生まれた、この深く、そして冷たい亀裂は、もはや誰にも、そしておそらくは、私自身にすら、修復不可能なのかもしれない。

 私は、ただ、次の勝利だけを見据えて、重い足取りで、歩き出した。

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