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異端の白球使い  作者: R.D
ダブルス編
246/674

Episode 永瀬 不気味な静寂

 隣に座るしおりさんは、相変わらず何を考えているのか分からない、静かな表情。


 でも、もう、その冷静さが怖くはなかった。むしろ、頼もしいとさえ思える。


 …この人となら、私、変われるかもしれない。迷惑をかけるだけの、私じゃなくなるかもしれない。


 そんな、淡い期待を胸に、私たちは次の試合の組み合わせが張り出された掲示板へと向かった。


 そして、その期待は、次の瞬間、絶望という名の鉄槌によって、粉々に打ち砕かれた。


 第二中学校:相川 奈緒 / 池田 ことね


 その二つの名前を視界に捉えた瞬間、私の周りの世界の音が、すうっと消えた。体育館の喧騒も、部長の陽気な声も、全てが遠くなる。


 ことねちゃん…?池田、ことねちゃん…?


 …なんでいるの…?


 頭の中が、真っ白になる。彼女は、体調不良で、今日の大会には来れないはずだった。だから、私は、急遽パートナーがいなくなって、途方に暮れていたんじゃなかったの?


 …嘘だったの…?私と組むのが嫌で…だから、嘘をついて…?


 混乱する思考。そして、その隣に並ぶ、もう一つの名前。


 相川先輩。


 あの日の、光景が、鮮明に蘇る。試合に負けた、私のせいで、先輩たちの最後の夏が終わってしまった、あの日。


「お前のせいで、私たちの努力が無駄になったんだぞ!」


「ほんと、お前がいると、チームの迷惑なんだよ!」


 先輩たちの、容赦ない罵声。そして、その中心に立っていた、相川先輩の、私をゴミでも見るかのような、あの冷たい目。


 あの二人が、ペアを組んで、目の前にいる。


 どうして?なんで?


 まるで、私を嘲笑うために、私をもう一度、あの悪夢の底へと突き落とすために、現れたかのように。


 全身から、急速に血の気が引いていく。足が、震えて、立っているのがやっとだった。


「あら、永瀬さんじゃない。結局、出場できてるんじゃん」


 その声に、心臓が凍りついた。相川先輩と、池田ことねさんが、私たちを、値踏みするような笑みを浮かべて見下ろしている。


「ずいぶんと小さい子と組んで。小学生?」


 その言葉が、隣に立つしおりさんに向けられたものだと、かろうじて理解する。でも、私の耳には、もっと、残酷な言葉の続きが聞こえてくるようだった。


 …どうせ、また、私がお荷物なんでしょ?どうせ、また、あなたのせいで負けるんでしょ?


「もしかして、その子に泣きついて、無理やり出させてもらったの?あなたがいると、チームの迷惑になるって、まだ分かってなかったんだ」


 相川先輩の言葉が、私の心の、最も柔らかな部分を、容赦なく抉っていく。


 ああ、やっぱり、そうなんだ。私は、迷惑な存在なんだ。どこへ行っても、誰といても、私は、みんなの足を引っ張るだけなんだ。


「てめえら…何言ってやがる!」


 部長の怒声が聞こえる。でも、今の私には、もう何も聞こえない。何も、考えられない。


 試合開始のコールが、無情に響く。


 コートに立つ。ネットの向こう側にいる、かつての仲間。その視線が、痛い。怖い。


 サーブ権はこちらから。震える手で、ボールを握りしめる。


 その時、耳元で、しおりさんの、静かな声がした。


「永瀬さん」


「あなたは、ただボールを相手コートに返してください。コースも、回転も、考える必要はありません。ただ、繋ぐ。それだけでいい。あとは、私が全て処理します」


 その声には、何の感情もなかった。でも、今の私には、その「感情のなさ」が、唯一の救いだったのかもしれない。考えなくていい。ただ、返せばいい。そうだ、私は、もう、何も考えたくない。


 私は、こく、こくと、人形のように頷いた。


 私のサーブは、ただ、台に入っただけの、山なりのボールになった。


 相手が、それを強打してくる。


 でも、次の瞬間、しおりさんが、私の前に回り込み、そのボールを、ピタリと、ネット際に止めた。


 私が、呆然としている間に、ポイントが入る。


 私の二本目のサーブ。また、平凡なボール。相手がドライブを打ってくる。それを、しおりさんが、カウンターで、いとも簡単に打ち抜いた。


 すごい。でも、それは、私の力じゃない。私は、ただ、そこに立っているだけ。


 私のパートナーは、私を、見ていない。彼女は、ただ、相手という「オブジェクト」を、冷静に「処理」しているだけだ。


 しおりさんのサーブ。見たこともないような、超低空のロングサーブが決まる。デッドストップが決まる。


 時折、相手のボールが、チャンスボールとして私の正面に飛んでくる。スマッシュを打たなきゃ。そう思う。でも、体が動かない。ミスをしたら、また、あの日のように…。


 その、私の躊躇を見透かしたかのように、しおりさんの氷のような視線が、私を縫い止める。


 私は、もう、ラケットを振ることをやめた。


 私は、生きた亡霊だ。ただ、サーブを入れ、相手のボールが来たら、しおりさんの打ちやすい場所へと、山なりにボールを「トス」するだけ。


 スコアボードの数字だけが、一方的に動いていく。

 8-0。9-0。10-0。

 そして、試合は、あっという間に終わった。

 11-0。圧勝。


 でも、私の心の中には、勝利の喜びなんて、ひとかけらもなかった。ただ、深い、深い虚無感が、広がっているだけだった。


 ベンチに戻る。部長が、何かを言っている。でも、聞こえない。


 しおりさんが、何かを言っている。それも、聞こえない。


 私の世界は、再び、あの日の体育館の、底なしの闇に閉ざされてしまった。


 その時だった。


「勝つことが、私の存在意義です…!負けることは私の存在否定に等しい!」


 しおりさんの、叫び声。


 今まで聞いたことのない、切実で、張り裂けんばかりの、魂の叫び。


 その声が、私の分厚い心の壁を、無理やりこじ開けた。


 ハッと顔を上げる。


 目の前で、しおりさんが、肩で、荒い呼吸を繰り返している。その小さな体は、微かに震えている。彼女の、あの、いつも冷静な瞳には、涙こそないものの、深い、深い苦悩と、そして絶望的なまでの渇望が、渦巻いていた。


 …しおりさん…?何を…言ってるの…?存在…否定…?


 …私のせいで負けたって、怒ってるんじゃなくて…負けること自体が、あなたにとっては…そんなに、苦しいことだったの…?


 私の、自分への罪悪感なんて、ちっぽけなものだったのかもしれない。この人は、私とは比べ物にならないくらい、重くて、暗いものを背負って、たった一人で戦っていたんだ。


 そして、部長が、諭すように、懇願するように、彼女に語りかける。


「俺たちは、ここにいる。それだけは、覚えとけ」


 その言葉に、しおりさんが、初めて、私の方を見た。

 その瞳は、まだ冷たい。でも、その奥に、ほんのわずかな、助けを求めるような光が見えた気がした。


「…永瀬さん」


「私は勝つためなら全てを捨てる覚悟をもっています、あなたもこの試合、何か因縁のある相手だと思いますが、何か思うことがあるのなら、プレーで、ぶつけてください」


 そして、彼女は、私にこう告げた。


「――あのムカつく雑魚を、蹂躙しますよ」


 その言葉は、慰めでも、励ましでもない。


 優しさなど、どこにもない。


 でも、その言葉は、私の心の奥底に、ずっと押し殺してきた、あの日の記憶への、怒りの導火線に、確かに火をつけた。


 そうだ。私は、悲しいだけじゃなかった。怖かっただけじゃない。


 悔しかった。理不尽だと思った。そして、あの二人を、心の底から、憎いと、思った。


 その、忘れていたはずの、黒い感情。


 私の、死んだ魚のようだった瞳の奥に、ほんの、ほんのわずかな光が、再び灯った。


 それは、希望の光ではない。


 もっと、危うく、そして激しい、怒りの炎だった。

 私は、涙で濡れた瞳で、しおりさんを、そしてネットの向こうでこちらを嘲笑う相川先輩と池田さんを、交互に見つめた。そして、


 こく、と。


 小さく、しかし、今度は明確な意志を持って、頷いた。

 インターバル終了を告げる、無情なブザーが鳴り響く。


 この、歪で、そして危険な即席ペアの、本当の反撃が、今、始まろうとしていた。

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