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異端の白球使い  作者: R.D
ダブルス編
245/674

不気味な静寂(2)

 11-1


 スコアボードに刻まれたその数字は、絶対的な勝利を示していた。ベンチに戻る私の足取りは、乱れ一つない。だが、その内側で、私の思考ルーチンは、勝利という結果とは裏腹に、不快なエラーログを吐き出し続けていた。勝利という結果が、冷たい鉄の塊のように、ただ胃の腑に落ちる。味も、温度も、何もない。

 隣に座る永瀬さんは、もう、俯いて震えてすらいない。ただ、感情というものが完全に抜け落ちた、能面のような顔で、自分の足元を、じっと見つめているだけだ。彼女は、もはや「駒」ですらない。ただの、意思のないオブジェクトへと成り果てていた。

(第一セット、作戦目標は達成。相手ペアの思考ルーチンは完全に破壊。そして、永瀬さんという不確定要素は、その活動をほぼ停止。これ以上なく、合理的で、効率的な結果だ)

 私は、内心でそう結論付け、この結果に満足しているはずだった。だが、胸の奥底で、前回の敗北で生まれた棘が、まだ鈍く、そして不快に、疼いている。なぜだ。勝利したはずなのに、このシステムエラーの残滓のような感覚は。

「……勝ちは、勝ちだ。スコアだけ見りゃ、圧勝だな。」

 沈黙を破ったのは、腕を組み、険しい表情で私たちを見ていた部長だった。その声には、一切の喜びも、称賛も含まれていない。そして、彼は、ゆっくりと私に視線を向けた。その瞳は、私の異質な戦術への驚嘆ではなく、明確な、そして静かな怒りを湛えている。

「だがな、しおり。あれは、ダブルスじゃねえ。」

(彼の発言は、論理的に矛盾している。大会レギュレーションに則り、二対二で行われたこの試合は、紛れもなくダブルスだ。彼の言う『ダブルス』の定義には、チームワークや信頼といった、数値化不可能な、非合理的なパラメータが含まれている。前提が、違う)

 私の思考は、彼の非論理的な言葉を、私の論理で訂正する。

「…卓球は勝つことが全てです、そして私は勝ちました。」

 私のその、絶対的な肯定とも、あるいは完全な拒絶とも取れる言葉。それを聞いた部長は、怒りを通り越した、深い、深い悲しみの色を目に浮かべた。

「…お前っ…!そんなことを言うのか…!」

 彼の声は、抑えられていたが、その奥底にはマグマのような激情が渦巻いている。

「隣を見ろ、しおり!永瀬の顔が見えねえのか!あいつは勝って嬉しい顔をしてるか!?お前は、勝ったかもしれねえが、あいつを、お前のパートナーを、完全に殺しちまったんだぞ!」

 魂からの、叫び。

 その熱量が、彼の感情が、私の「静寂な世界」の壁に、激しく叩きつけられる。思考の回路がショートする。論理の城壁が、彼の熱量によって、そして隣に座る少女の絶望によって、内側から破壊されていく。

 私の思考ルーチンは、彼のその非論理的なノイズを、弾き返すことができない。

(…やめて…分からない…意味がない…勝利以外に、何がある…?)

 過去の記憶が、黒い染みのように思考に広がる。あの日の、冷たい水の感触。耳を劈く怒声。孤独。無力。それら全てを否定するために、私は勝利を求めてきた。それ以外に、道などなかったはずだ。

 防衛本能が、絶叫する。そして、その絶叫は、ついに、私の唇から、私自身の声となって、迸り出た。

「勝つことが、私の存在意義です…!負けることは私の存在否定に等しい!」

 初めて、私の声が荒らげた。自分でも驚くほどの、切実な響き。それは、私の「静寂な世界」を守るための、最後の、そして必死の抵抗だった。

 体育館の喧騒が、一瞬だけ、完全に消え去ったような気がした。

 私の叫びを聞いた部長は、雷に打たれたかのように、その場で完全に動きを止めている。彼の顔から、怒りの色が、すっと音を立てて消え去っていく。

 私は、荒い呼吸を繰り返しながら、さらに言葉を絞り出す。それは、もはや彼らに向けたものではない。私自身に、言い聞かせるための、呪いのような言葉だった。

「…負ければ終わりなんです、勝たなければ、…私に取って卓球は、勝利は、唯一、自分を表現できる場所なんです。」

 私が、そう呟いた時、部長は、か細く、そして掠れた声で、静かに言った。

「……存在…否定…?」

 彼の瞳には、もはや怒りの色は一片も残っていない。ただ、目の前の、あまりにも小さく、そしてあまりにも大きなものを背負った、一人の少女に対する、どうしようもないほどの、深い戸惑いと、そして、これまで気づいてやれなかったことへの、静かな痛みが浮かんでいるだけだった。

  「俺がいる。あかねもいる。未来も、…永瀬だって、そうだ。俺たちは、お前が勝とうが負けようが、お前は静寂しおりだって、分かってる。お前が、ここにいていいんだって、そう思ってる。」

 彼は、一歩、私に近づいた。

「それじゃ、ダメなのか…?」

 彼のその問いは、答えを求めるものではない。

 私は、彼のその視線から逃れるように、再び正面へと向き直る。そして、彼の次の言葉を、私の論理で、冷たく切り捨てた。

「…あなたはそうでしょう、あかねさんや、未来さんも、でも、人はみんな、時間と共に、ありいは他の要因でいなくなります、いずれ私は敗北します。それもわかっています、でも、それでも勝利を諦めることはできないのです、あなたもご存じでしょう、勝つためなら、私はなんだって捨てることを」

 部長が、力なく息を吐くのが分かった。彼の熱では、私のこの氷の壁は溶かせない。

 そうだ。これでいい。信じられるのは、私自身のロジックだけなのだから。

 しかし、その時だった。

 部長の最後の言葉が、私の思考に、新たな、そして予測不能な波紋を広げた。

「…お前が、何を捨てようと、誰を駒として使おうと、俺たちは、ここにいる。 それだけは、覚えとけ。」

(…ここに、いる…?)

 その、あまりにも非合理的な宣言。何の保証もない、ただの感情的な言葉。それが、私の思考ルーチンに、これまでで最大の、そして最も解析不能な「バグ」を植え付けた。


 私は、混乱する思考の中で、初めて、永瀬さんへと、その視線を向けた。

 感情のない、能面のような顔。だが、その握りしめられた拳は、白くなるほどに力が込められ、微かに震えている。

(…あなたも、何か因縁のある相手…)

 そうだ。彼女もまた、あの二人によって、心を壊されかけた人間。彼女の、あの瞳の奥底に燻る、行き場のない怒り、悔しさ、そして憎悪。

(そうだ。この、永瀬ゆいという存在が発する、この負のエネルギー。これを、ただのノイズとして処理するのではない。これを、利用するのだ。彼女の『怒り』を、彼女の『憎しみ』を、私の戦術に組み込む。それこそが、この状況における、最も『異端』で、そして最も『合理的』な最適解)

 私の思考が、新たな、そして歪んだ結論を導き出す。

「…永瀬さん」

 私の静かな呼びかけに、彼女の肩が、びくりと震える。

「私は勝つためなら全てを捨てる覚悟をもっています、あなたもこの試合、何か因縁のある相手だと思いますが、何か思うことがあるのなら、プレーで、ぶつけてください」

 私は、彼女の、その虚ろな瞳を、真っ直ぐに見据えた。そして、氷のように冷たい声で、しかし、その奥に、ほんのわずかな、新たな種類の「熱」を込めて、告げた。

「――あのムカつく相手を、蹂躙しますよ。」

 その言葉は、慰めでも、励ましでもない。

 優しさなど、どこにもない。

 しかし、その言葉は、これまでのどの言葉よりも、永瀬さんの心の、最も深い場所へと、直接的に突き刺さった。

 彼女の、死んだ魚のようだった瞳の奥に、ほんの、ほんのわずかな光が、再び灯った。

 それは、希望の光ではない。

 もっと、危うく、そして激しい、怒りの炎だった。

 彼女は、涙で濡れた瞳で、私を、そしてネットの向こうでこちらを嘲笑う相川と池田を、交互に見つめた。そして、

 こく、と。

 小さく、しかし、今度は明確な意志を持って、頷いた。

 インターバル終了を告げる、無情なブザーが鳴り響く。

 この、歪で、そして危険な即席ペアの、本当の反撃が、今、始まろうとしていた。

 本日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 勝利とは何か、強さとは何か。優しさとはなんなのか。しおりの悲痛な叫びは、私自身がこの物語を通して問い続けたいテーマの一つです。

 単なるスポーツの熱さだけではない、人間の持つ弱さや、歪んだ執着。そんな「どろどろした感情」の先に、彼女たちは何を見つけるのでしょうか。

 伏しながらも、怒りの炎を持った永瀬さんと、彼女を「武器」として利用しようとするしおり。この、危険な共闘の行方を、ぜひ、最後まで見届けてください。


 面白い、続きが気になる、と感じていただけましたら、ブックマークや評価での応援を、心からお待ちしております。


R・D

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