不気味な静寂
Bコート、第三試合。私と、その隣で、もはや石像のように固まってしまった永瀬さん。ネットの向こう側には、勝ち誇ったような、そして私たちを値踏みするような視線を向ける、相手ペア。
体育館の喧騒が、遠い。
私の思考は、極限までクリアに、そして氷のように冷たくなっていた。
敗北の記憶。理不尽な挑発。そして、隣に立つ、この制御不能な「不確定要素」。その全てが、私の思考ルーチンの中で、一つの結論へと収束していく。
――証明しろ。私のロジックの、絶対性を。
試合開始の挨拶。お互いに頭を下げる。だが、私が頭を上げた時、その瞳には、もはや対戦相手の姿すら、ただの「排除すべきオブジェクト」としてしか映っていなかった。
サーブ権はこちらから。永瀬さんが、震える手でボールを握りしめている。
私は、彼女の耳元に、そっと、しかし一切の感情を排した声で囁いた。
「永瀬さん」
彼女の肩が、びくりと跳ねる。
「あなたは、ただボールを相手コートに返してください。コースも、回転も、考える必要はありません。ただ、繋ぐ。それだけでいい。あとは、私が全て処理します」
その冷徹な支配宣言に、永瀬さんは、こく、こくと、人形のように頷くだけだった。
彼女のサーブ。もはや何の意図も感じられない、ただ台に入っただけの、山なりのボール。
相手の池田さんが、待ってましたとばかりに、そのボールを強打してくる。
3球目を打つのは、私だ。
私は、予測通りにそのコースへと移動しており、相手の強打を、スーパーアンチの面で、完璧に殺す。ボールは、嘲笑うかのように、ネット際にぽとりと落ちた。
相川先輩が、慌てて前に踏み込むが、間に合わない。
静寂・永瀬 1 - 0 相川・池田
「なっ…!」相川先輩の余裕の表情が、初めてわずかに歪む。池田さんも、信じられないといった顔で私のラケットを見ている。
永瀬さんの二本目のサーブ。これもまた、平凡なボール。相川先輩が、ドライブで私のバックサイド深くへと打ち込んできた。
3球目、私への返球。私は、そのボールに対し、今度は裏ソフトの面に持ち替え、相手のドライブの回転を利用し、コンパクトなスイングで、相手ペアの真ん中へとカウンターを叩き込んだ。
静寂・永瀬 2 - 0 相川・池田
コートサイドで見守る部長は、腕を組み、眉間に皺を寄せた。
(…なんだ?今のしおりの言葉…。永瀬のやつ、完全に動きが止まってやがる。しおりの奴、一体何を考えてやがるんだ…?)
ここからは一方的な蹂躙だった。
デッドストップで透かされ、ナックルドライブでナックル性のボールを押し付ける。
私のサーブになれば、一切の躊躇なく、超低空ナックルロングサーブを、相手コートに深くに突き刺す。彼女は、反応すらできない。
相手ペアの顔から、完全に笑みが消えた。相川先輩の口元が、悔しさにきつく結ばれている。
まれに、永瀬さんへチャンスボールが回る。
永瀬さんの身体が、スマッシュを打とうと、ほんのわずかに動いた。
だが、私の、氷のような視線が、彼女の動きを縫い止める。彼女は、私の指示を思い出し、攻撃ではなく、ただ山なりの、安全なボールを相手コートに返した。
その甘いボールを、相川先輩がスマッシュで、私のフォアサイドに叩きつけてくる。
5私。私は、そのスマッシュを、アンチラバーで完璧にブロックし、相手コートの隅へと、静かに、そして無慈悲にコントロールした。
部長の顔が、険しくなる。
(おい、しおり…今のは、永瀬が打つべきボールだったはずだ。お前、まさか…一人でやるつもりか…?違う、ダブルスはそんなんじゃねえだろ…!)
永瀬さんは、もう、ラケットを振ることに、意志を介在させなくなった。
相手ペアは、完全に混乱していた。ダブルスを戦っているはずなのに、目の前にいるのは、常に、静寂しおりという、たった一人の「異端の魔女」。そして、その隣には、ただボールを返すだけの、生きたゴーストがいる。
相手のサーブ。狙われるのは、当然、永瀬さんだ。
彼女は、指示通り、ただ山なりに返す。
相手が、そのチャンスボールを、私に叩き込んでくる。
私は、それを、アンチラバーで殺し、あるいは裏ソフトでカウンターを決め、ポイントを重ねる。
静寂・永瀬 8 - 0 相川・池田
「な…なんなんだよ、あいつ…!一人で、全部…!」
相川さんの、もはや余裕のかけらもない、引きつった顔から、苛立ちと恐怖が混じった声が漏れる。池田さんは、泣き出しそうな顔で、ただ俯いていた。
そうだ。一人で、全部。
これこそが、私の求めていた、完璧に制御された世界。
ノイズはない。不確定要素もない。
あるのは、私の分析と、それを実行する、私の技術だけだ。
試合は、あっという間に終わった。
スコアは、11-1。
第一セット終了。私は、相手の顔を見ない。ただ、形式的に頭を下げるだけだ。相川さんと池田さんは、悔しさと、それ以上の、何か得体の知れないものに対する恐怖で、顔を引きつらせていた。
ベンチに戻ると、部長が、どこか引きつったような、複雑な表情で私を迎えた。彼の瞳には、私の圧倒的な実力への驚嘆と、それ以上に、私のそのあまりにも冷徹な戦い方と、隣で魂が抜け殻のようになった永瀬さんの姿に対する、深い憂慮の色が浮かんでいた。
永瀬さんは、もう、俯いて震えてすらいなかった。ただ、感情というものが完全に抜け落ちた、能面のような顔で、自分の足元を、じっと見つめているだけだった。
圧勝。
しかし、私たちのベンチには、勝利の喜びなど、どこにも存在しなかった。
ただ、氷のように冷たく、そして重い空気が、支配しているだけだった。