Episode 永瀬 異端の白球使い(2)
そうだ。私は、考えすぎていたんだ。勝敗も、責任も、今は考えなくていい。部長が、しおりさんが、そう言ってくれている。なら、私は、ただ、目の前のボールを、思いっきり叩くことだけを考えよう。
インターバルが終わり、私たちは再びコートへ向かう。さっきまでとは、少しだけ違う気持ちだった。足の震えは、まだ完全には止まっていない。でも、その震えの中心に、ほんの小さな、熱い芯ができたような気がした。
第二セットが始まる。相手のサーブ。今度は、台から出る長いサーブだった。私を台から下げて、力で勝負しようという意図が見える。
(来る…!)
私が後ずさりしようとした、その時。しおりさんが、逆に一歩、前に踏み込んだ。
そして、ボールの頂点を、見たこともないような不思議なモーションで、押し出すように打ち抜いた。
白い閃光。
ボールは、相手の強烈な回転が嘘みたいに、ナックルのままドライブのような軌道で、相手コートを駆け抜けていった。エース。大学生ペアは、何が起こったのか理解できない、という顔で立ち尽くしている。
すごい。すごい、すごい、すごい!こんな卓球、見たことない!
次のポイント。相手は、今度は短いサーブを出してきた。しおりさんは、それをストップする構えから、一転、鋭いフリックを相手ペアの真ん中に叩き込んだ。相手がなんとかブロックする。台の上での、短いラリー。
そして、ついに、その時が来た。
相手のブロックが、ほんの少しだけ、甘く浮き上がった。私の目の前に、絶好のチャンスボールが、ゆっくりと昇ってくる。
――思い切って、叩け!
――あなたの役割は、『隙』を突くこと。
部長としおりさんの声が、頭の中で響く。
もう、迷いはなかった。私は、一歩前に踏み込み、腰を落とし、腕を大きく振りかぶった。
「…いっけええええええっ!」
無意識に、声が出ていた。ラケットの芯でボールを捉える、心地よい感触。鋭い打球音が体育館に響き渡り、ボールは相手コートの誰もいないオープンスペースへと、一直線に突き刺さった。
決まった。
私が、決めた。
「…ナイススマッシュです、永瀬さん」
平坦な声が、耳に届く。
「は、はい…!あ、ありがとうございます…!」
声が上ずるのを、止められない。嬉しい。怖い、よりも、嬉しい。私がチームの役に立てた。私が、ポイントを取った。その事実が、じわじわと全身に広がっていく。
そこからの試合は、夢の中にいるみたいだった。しおりさんが、その異次元のプレーで、全てのボールを台の上での戦いに限定する。彼女が作り出す、無数の「隙」。私は、その「隙」を見つけるたびに、夢中でラケットを振った。ミスもあったかもしれない。でも、もう覚えていない。ただ、楽しかった。しおりさんと二人で、一つの生き物みたいに、相手を翻弄していく。その感覚が、たまらなく楽しかった。
試合が終わった瞬間を、実はあまり覚えていない。気づいたら、スコアボードは11-3を示していて、部長がベンチで立ち上がって、何かを叫んでいた。
勝ったんだ。私、勝ったんだ。
「やった…やったね、しおりさん…!」
私が興奮して話しかけても、しおりさんは「はい。論理的な帰結です」と返すだけ。でも、もう、その冷静さが怖くはなかった。むしろ、頼もしく感じるくらいだった。
そして、反省会でのこと。
私たちは、ベンチで部長の話を聞いていた。部長が、私のスマッシュを「度胸満点だ!」と褒めてくれて、また顔が熱くなる。しおりさんは、いつも通り、冷静に試合の分析をしていた。
その時だった。さっきの大学生ペアが、私たちの方へやってきたのは。
(な、なんだろう…文句、言われるのかな…)
また、心臓が嫌な音を立て始める。でも、彼らの口から出たのは、意外な言葉だった。
「…参りました。完敗です」
深々と頭を下げる彼らに、私はただ恐縮するばかりだった。そして、田中選手と名乗った人が、おずおずと、しおりさんに質問を投げかけた。
「以前、噂で聞いたことがあるんです。中学の県大会で、まるで小学生みたいな見た目の一年生が、とんでもないプレーで優勝した、って…。もしかして、君が、その選手だったり…しますか?」
小学生。その言葉に、私は「失礼だな」なんて、少しだけ思った。でも、次の瞬間、私は信じられないものを見た。
いつも無表情なしおりさんが、ほんの少しだけ、むっとした顔をしたのだ。口を、ほんの少しだけ尖らせて。
「…私は小学生ではありません。中学一年生です」
拗ねてる…!?しおりさんが、拗ねてる!?
その、あまりの人間味に、私は衝撃を受けた。この子にも、そんな感情があったんだ。
その時、今まで黙っていた部長が、ニヤリと笑って、聞かれてもいないのに大声で言った。
「おう、その噂、合ってるぜ!こいつが、その県大会中学女子シングルス、優勝者の静寂しおりだ!まあ、見た目はこんなんだがな!」
…………え?
……………いま、なんて?
「そして、そこの人は、このオープン大会のレギュレーションを事前に調べもせずにここへ来て、ペアが組めずに試合に出られず、仕方なく私たちのコーチをしている間抜けです」
「ぶっ!?」
水を飲んでいたらしい部長が、変な音を立てて固まる。その視線の先では、拗ねたままのしおりさんが、平坦な声で、でも、とんでもない爆弾を投下していた。
私の頭は、完全に思考を停止した。
け、県大会…優勝…?しおりさんが?あの、静岡県の、頂点…?
そ、それに、部長が…ま、間抜け…?
「え……ええええええええっ!?」
私の絶叫が、体育館の隅に響き渡った。もう、何が何だか分からない。
「け、県大会…ゆ、優勝…!?し、しかも部長は間抜け…!?え、え、情報量が…!」
頭がぐらぐらする。目の前の、私よりずっと小さくて、華奢で、小学生みたいに見える女の子。ロボットみたいに話す、不思議な子。その子が、静岡県のチャンピオン?
だから、あんな、人間業とは思えないプレーができたんだ。大学生を、子ども扱いできたんだ。
そして、あの、怖くて、でも頼りになる部長が…大会に出たくて来たのに、ルールを知らなくて出られなかった、ただの間抜け…?
大学生ペアが、何かを納得したように去っていく。部長が、「間抜けはねえだろ!」と叫んでいる。しおりさんが、「事実です」と冷静に返している。
私は、そのやり取りを、ただ呆然と見ていることしかできなかった。
私のパートナー。
静寂しおりさん。
異端のプレースタイルを持つ、県の頂点に立つ、最強のプレーヤー。
そして、小学生と言われると、ちょっとだけ拗ねる、可愛いところもある女の子。
とんでもない人と、ペアを組んでしまった。
でも、不思議と、もう怖くはなかった。
私の心臓は、まだ少しうるさく鳴っていたけれど、その音はもう、恐怖の音ではなかった。それは、未知への期待と、とてつもない高揚感が奏でる、新しいリズムだった。
この人と一緒なら、私は、もっと強くなれるかもしれない。
私は、隣に立つ小さなチャンピオンの横顔を、尊敬と、畏怖と、そして、ほんの少しの親しみを込めて、ただ、じっと見つめていた。