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異端の白球使い  作者: R.D
ダブルス編
234/674

Episode 永瀬 異端の白球使い

 私の心臓は、まるで壊れたメトロノームみたいに、不規則で、うるさい音を立て続けていた。

 体育館の白すぎる照明。床のワックスの匂い。たくさんの知らない人たちの声と、無数のボールが跳ねる乾いた音。その全てが、私の胃をじわじわと締め付けてくる。

「オープン大会」。その名前の通り、年齢も、実績も、何もかもが違う選手たちが集まる、交流がメインのお祭り。頭ではそう分かっているのに、私の身体は正直だった。ネットを挟んで誰かと向き合う。それだけで、あの日の記憶が、冷たい霧のように足元から這い上がってくるのだ。

 中学最後の大会。私が、たった一つの簡単なレシーブミスをしたせいで、チームは負けた。私のせいで、みんなの夏が終わった。あの時の、チームメイトの無言の視線。顧問の先生の、失望のため息。それ以来、私はラケットを握るのが怖くなった。自分のミスが、誰かの努力を無に帰すことが、何よりも怖い。

 そんな私が、どうして今、ここにいるんだろう。部長の、ほとんど無理やりな「経験のためだ!」という一喝がなければ、きっと体育館の入り口を潜ることすらできなかった。

「永瀬!こっちだ!」

 部長の大きな声に、びくりと肩を揺らして振り向く。その隣に立っていたのが、私の今日のパートナー、静寂しおりさんだった。

 腰まで届く綺麗な黒髪。人形みたいに整った顔立ち。でも、その瞳は、ガラス玉みたいに何の感情も映していなくて、少し怖かった。何より、小さい。中学一年生と聞いていたけれど、小学生だと言われても信じてしまうくらい、華奢で、小柄だった。

「…静寂しおりです。本日の試合、よろしくお願いします」

 ぺこり、と頭を下げる彼女の声は、彼女の瞳と同じで、温度というものが全く感じられなかった。

「あ、は、はい!よ、よろしく…お願いします!あ、あの、私のせいで負けちゃったら、ご、ごめんね…!」

 情けない。最初から、謝ることしか考えていない。しおりさんは、そんな私をじっと見つめて、静かに言った。

「問題ありません。勝敗は、試合前のデータ収集と、試合中の戦術遂行能力によって決定されるため、あなたの責任という概念は存在しません。私の思考ルーチンに従っていただければ、勝利は自然と寄ってきます。」

「し、思考ルーチン…?」

 何を言っているのか、さっぱり分からなかった。ただ、この子は普通じゃない。それだけは、痛いほど伝わってきた。

(どうしよう…。こんな不思議な子と組むなんて…。私がしっかりしなきゃ。年上なんだから。この子に、嫌な思いだけはさせちゃいけない…)

 恐怖と、ほんの少しの庇護欲。ぐちゃぐちゃの感情のまま、私たちは最初の試合のコートに立った。相手は、大学生のペア。がっしりとした体格。自信に満ちた表情。ああ、ダメだ。もう、足が震える。

 試合が始まる。相手のサーブ。速くて、回転のかかったボールが、私の方へ向かってくる。怖い。また、ミスをする。私のせいで、最初のポイントを失う。しおりさんに、呆れられてしまう。

 ――その瞬間。

「私が、処理します」

 静かな声とともに、私の前にいたはずのしおりさんが、まるで瞬間移動したかのようにボールの落下点に入っていた。彼女が、ラケットの、奇妙なほどつるりとした面のラバーで、ボールをちょこん、と突く。

 カツン、と軽い音。ボールは、相手のドライブの威力が嘘みたいに、勢いをなくしてネット際にぽとりと落ちた。相手は完全に意表を突かれ、返球できない。

「え…?」

 何が起きたの?今の、何?

 そこから先は、私にとって、理解不能な時間の連続だった。

 しおりさんのサーブは、回転しているのかしていないのか、全く分からない。ボールは、相手コートで揺れるように、あるいは滑るように変化した。相手の大学生ペアは、ことごとくレシーブをミスしていく。ネットにかけたり、台から大きくオーバーさせたり。

 彼らがなんとか返してきたボールも、しおりさんは全て、あの奇妙なラバーで淡々と処理していく。強打されても、ラケットを壁のように合わせるだけで、ボールは相手の力を利用して、予測不能なコースへと返っていく。私がラケットを振る機会は、ほとんどなかった。私はただ、コートの隅で、目の前で繰り広げられる魔法みたいな光景を、呆然と見ているだけだった。

「…すごい…」

 いつの間にか、声が漏れていた。怖いはずの試合が、怖くない。だって、私が何かをする前に、全部しおりさんが終わらせてしまうから。安心感と、自分の無力感が、胸の中で混ざり合う。

 第一セットは、本当にあっという間に終わった。スコアは、たしか11-3とか、それくらい。ほとんど何もさせてもらえなかった大学生ペアは、信じられないといった顔でベンチに座っている。

「おいおい、お前ら、とんでもねえペアだな…大学生相手に、ほとんど何もさせなかったじゃねえか…」

 ベンチに戻ると、部長が呆れながらも興奮した様子で私たちを迎えた。私は、隣に座るしおりさんを見る。試合が終わっても、彼女の表情は一切変わらない。呼吸ひとつ乱れていない。本当に、同じ人間なんだろうか。

「…わたしのせいで、負けなかった…。わたしがいても、迷惑じゃ…なかった…?」

 そんな感情が、不意に胸に込み上げてきて、視界が少しだけ滲んだ。

「いいか、お前ら、よく聞け!」

 部長の真剣な声に、はっと我に返る。

「この大会は二セット先取だ。次を取れば、勝ちだ。それと、しおり。相手は、お前のアンチラバーに全く慣れてねえ。そこを徹底的に突け。そして、永瀬!」

 名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。

「お前は、しおりが作ったチャンスボールを、思い切って叩け!お前の台上技術は、中学レベルじゃ間違いなく高いレベルだ。ミスしたっていい!その責任は、全部俺が取ってやる!だから、思いっきりやれ!いいな!」

 責任は、俺が取る。

 その言葉が、私の心の奥に、深く、深く突き刺さった。今まで、誰も言ってくれなかった言葉。ミスしてもいい、なんて、許されたことなんてなかったから。

「…永瀬さん」

 しおりさんが、私に向き直る。

「あなたの役割は、私が作り出した『隙』を、確実に突くこと。それだけを、考えてください。あなたの攻撃が失敗した場合のリカバリープランは、全て私の思考ルーチンに組み込まれています。何も、心配する必要はありません」

 人間味のない、ロボットみたいな言葉。でも、なぜだろう。部長の熱い言葉よりも、もっと確かな安心感が、その言葉にはあった。失敗しても、この子がいる。この子が、なんとかしてくれる。

 そうだ。私は、考えすぎていたんだ。勝敗も、責任も、今は考えなくていい。部長が、しおりさんが、そう言ってくれている。なら、私は、ただ、目の前のボールを、思いっきり叩くことだけを考えよう。

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