決着
体育館に響き渡っていた割れんばかりの歓声と拍手が、少しずつ遠ざかっていく。
私は、まだ肩で大きく息をしながら、ネットの向こう側で同じように膝に手をつき、荒い息を繰り返す部長を見つめていた。
彼の顔には、信じられないものを見たという驚愕と、全力を出し切った後の清々しさ、そしてほんのわずかな悔しさが複雑に混じり合って浮かんでいる。
「しおりさんっ! 大丈夫!?」
最初に私の元へ駆け寄ってきたのは、マネージャーのあかねさんだった。
その手にはタオルとドリンクボトルが握られ、彼女の大きな瞳は心配と興奮で潤んでいるように見えた。
「…はい。…大丈夫、です。」
私は、掠れた声で何とか答える。実際には、全身の筋肉が悲鳴を上げ、立っているのがやっとの状態だった。
指先は微かに震え、思考もまとまらない。しかし、勝利という結果だけが、確かな感触として私の中に残っていた。
「部長先輩も、お疲れ様でした!」
…部長先輩?変な呼び方だ。しかし今はそんなことを考えている余裕はなかった。
あかねさんは、次に部長の方へ駆け寄り、同じようにタオルとドリンクを差し出している。
彼の周りには、他の部員たちも集まり始め、口々に今の試合の感想を興奮気味に語り合っていた。
「いやー、部長、惜しかったっすね!」
「でも、あの静寂って一年、マジで何なんですか…? 最後とか、意味わかんなかったですけど…」
部員たちの声は、私に対する畏怖と、理解不能なものへの戸惑いが入り混じっている。
やがて、部長がゆっくりと顔を上げ、私の元へ歩み寄ってきた。その足取りはまだ少し重そうだ。彼の背後から、三島さんも心配そうについてくる。
体育館の隅、少しだけ喧騒から離れた場所に、私たち三人は自然と集まる形になった。
「……静寂。」
部長が、まず口を開いた。その声は、いつものような大声ではなく、少し掠れ、そしてどこか真剣な響きを帯びていた。
「…お前の卓球は…やっぱり、分からん。」
彼は、正直な感想を漏らすように言った。そして、手に持っていたラケットで、自身の太腿を軽く叩いた。
「あの最後のナックル性のロングサーブからの、アンチでの横回転ブロック…あんなの、どうやって思いつくんだ?…さらにそれを実行する胆力。完全に裏をかかれた」
彼の瞳は、私のラケット、そして私の顔を交互に見つめている。そこには、純粋な疑問と、そしてある種の探求心のようなものが浮かんでいた。
「…相手のサーブの質、コース、そして部長のあの場面での状態を考えた結果、最も成功率が高いと判断し選択しただけ…です」
私は、いつものように淡々と、しかし極度の疲労からか、少しだけ途切れがちな声で答えた。
「…最後のスマッシュも、あの体勢からよくあんなコースに…」
あかねさんが、感嘆の声を漏らす。彼女のノートには、びっしりと何かが書き込まれているのだろう。
「いや、それだけじゃねえだろ」と部長が割って入る。
「あのデュースの最中…お前、いくつか今まで見たことねえような動きや球筋を混ぜてきたよな? 特に、俺がスマッシュを空振りさせられたやつ…あれは一体、何だったんだ?」
彼の問いは、今日の試合で私が試みた技のことを指しているのだろう。
…あの技には、まだ明確な名称も、安定した成功率もない。私の「引き出し」の中で、最も不確かで、そして最も異質なもの。
「…あれは…まだ、完成していません。ただの、試みです。」
私は、正直に答える。全てを説明する必要はない。
「試み、ねぇ…」
部長は、腕を組み、何かを深く考えるような表情になった。
「お前は、底が知れねえな、本当に。だが、今日の試合でよく分かった。お前のその異端は、ただの奇策じゃねえ。緻密な計算とそれを実行できるだけの技術と基礎、実行する胆力、そして何よりも…折れない心がある。」
彼の言葉は、私にとって予想外のものだった。
単に「変な卓球」と片付けられるのではなく、その裏にある何かを、彼なりに理解しようとしてくれている。
「でも、しおりさん、すごく疲れてないですか?顔色もあまり良くないですし…」
あかねさんが、心配そうに私の顔を覗き込む。彼女の言う通り、体力の限界は近い。
頭の奥が、鈍く重い。それは、単なる疲労だけでなく、極度の集中状態から解放された反動と、そして…
ごく微かに、あの「悪夢」の入り口を覗き込んだような、不快な感覚の予兆。ほんの少し、意識の端が霞むような。
…まずい。少し、情報を処理しすぎたか。
私は、無意識のうちに首筋に手をやりそうになるのを、寸前で堪えた。
「…少し、疲れました。部長のパワーは、やはり強力です。」
私は、当たり障りのない言葉を返す。
「はっはっは!そうだろうそうだろう!だが、お前のその変化と粘りは、それ以上だったってことだ!今日は完敗だ、静寂。この俺が、一年に、練習試合とはいえ負けるとはな!」
部長は、そう言って豪快に笑った。その笑顔には、悔しさよりも、どこか清々しさと、そして私に対する明確なライバル意識のようなものが宿っているように見えた。
「でもな、静寂。お前、まだ実戦での駆け引きや、体力の配分には課題があるみてえだな。今日の試合、もしフルセットだったら、どうなってたか分からんぞ?」
彼の指摘は的確だ。今日の勝利は、薄氷の上にあった。
「…はい。今後の課題として、認識しています。」
私は、素直に認める。
「よし!なら、その課題克服のためにも、また俺と練習だ!お前のその新しい『試み』とやらも、全部見極めてやる!」
部長は、再び熱血的な調子を取り戻し、私の肩をバンと叩いた。その力強さに、思わず体がよろめきそうになる。
…この人の熱量は、底なしか。
「…お手柔らかに、お願いします。」
私がそう言うと、部長は「当たり前だ!俺はいつでも全力だからな!」と胸を張った。
絶対わかってない。
あかねさんは、そんな私たちを見て、少し困ったように、でもどこか楽しそうに微笑んでいた。
体育館の喧騒が、少しずつ日常のそれに戻っていく。
私の体には、経験したことのないほどの疲労感が残っている。
だが、それと同時に、この「部長」という存在、そして彼との真剣勝負が、私の閉ざされた世界に、これまでとは違う種類の刺激と、そしてほんのわずかな「熱」をもたらしたことも、感じていた。
それは、まだ言葉にはできない、新しい感情の萌芽なのかもしれない。
そして、その「熱」の奥底に、微かに揺らめく「悪夢」の影を、私はまだ、誰にも気づかれないように、静かに見つめていた。
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