オープン戦ダブルス
永瀬さん。彼女の震える手が、私の差し出した手に、おそるおそる重ねられた。その手は、驚くほどに冷たい。
「…はい…。」
彼女のか細い、しかし確かな承諾の言葉を、私の聴覚センサーは正確に記録した。
(…交渉成立、か。これで、私の大会参加確率は0%から100%へと移行した。極めて効率的な結果だ)
私は、内心でそう結論付けながら、彼女の手を軽く握り、そして離した。
「よし!話は決まりだな!じゃあ、さっそく女子ダブルスのエントリーしてくるぜ!」
部長は、私のその合理的な説得(と彼が解釈したであろう行動)に満足したのか、再び意気揚々と受付カウンターへと走り去っていった。その背中には、先ほどの失態を取り返したと言わんばかりの、自信が満ち溢れている。
後に残されたのは、私と、そしてまだ不安げに俯いている永瀬ゆいさん。気まずい沈黙が、私たちの間に流れる。
(…この状況、コミュニケーションプロトコルの再構築が必要だ。まずは、基本的な情報交換から)
「はじめまして。私は、第五中学校一年の、静寂しおりです。」
私は、いつも通りの平坦な声で、自己紹介をする。私の声に、感情という名のノイズは乗っていない。それが、私にとって最も標準的な対人インターフェースだからだ。
私のその声に、永瀬さんはビクリと肩を震わせ、おずおずと顔を上げた。
「あ…えっと…わ、わたしは、第二中学校の永瀬ゆいです…。中学…二年生、です…。」
彼女の声は、まだ震えている。その瞳には、私への警戒心と、そして状況が理解しきれていないことへの困惑が浮かんでいた。
(永瀬ゆい、中学二年。私よりも一つ上の学年。彼女の精神状態のパラメータは、依然として不安定な領域にある。特に「ダブルス」というキーワードに対し、強い負の反応を示す。過去のトラウマとの関連性が強く示唆される。興味深い分析対象だ…)
「おう、エントリー完了だ!お前ら、第一試合は10分後、Bコートだからな!準備しとけよ!」
部長が、一枚の紙を手に、意気揚々と戻ってきた。その紙には、おそらく対戦表が書かれているのだろう。
「あ、そうだ。この大会、トーナメントじゃなくて、リーグ戦だからな。最低でも3試合はできるぞ!良かったじゃねえか、しおり!経験値、稼ぎまくりだぜ!」
部長は、そう言って私の肩をバンバンと叩く。
「…リーグ戦、ですか。」
「おうよ!4ペアで1ブロックになっててな、その中で総当たり戦をやるんだ。で、ブロックで一番勝ち星の多いペアが、決勝トーナメントに進めるってわけだ。まあ、今日の目的は優勝ってより、色んな奴らと戦って経験を積むことだからな!お前らみたいな即席ペアには、ちょうどいいだろ!」
部長のその説明は、このオープン大会が「交流」を主な目的としていることを示唆していた。読者にも分かりやすいように、彼は基本的なルールを丁寧に解説してくれる。
(リーグ戦…なるほど。一度の敗北が、即座に全体の敗退に繋がるわけではない。これは、私と永瀬さんという、連携パラメータが未知数のペアにとって、様々な戦術的「実験」を行う上で、極めて有利な条件と言える。そして、強い相手に敗北するというデータも、今後の分析のためには必要不可欠だ…)
「さあ、グズグズしてんじゃねえ!第一試合の相手は…っと、大学生のペアか!胸を借りるつもりで、思いっきりやってこい!」
部長のその声に、永瀬さんの肩が再びビクッと震えた。大学生…彼女のトラウマを刺激するには、十分すぎる相手かもしれない。
私は、そんな彼女の様子を冷静に観察しながら、自分のラケットケースへと手を伸ばす。
部長は「よっしゃ!行ってこい!」と、まるで自分のことのように意気込み、私たちの背中を文字通り押す。
10分後、私たちはBコートに立っていた。目の前に立つのは、私たちよりも頭一つ分は大きい、がっしりとした体格の大学生ペア。その身体能力と、自信に満ちた佇まいは、彼らがこのオープン大会においても、かなりの実力者であることを示唆していた。
(久しぶりの、ダブルス。そして、パートナーは初顔合わせの、永瀬ゆい。相手は、格上の大学生。なるほど…これは、実に興味深い「実験」ができそうだ…)
私の思考ルーチンが、この予測不能な状況に対し、新たな分析を開始する。
「よろしくお願いします!」
大学生ペアが、元気よく挨拶をする。私も、そして隣の永瀬さんも、頭を下げた。
「…お願いします。」
「よ、よろしくお願いします…」
永瀬さんの声は、まだ僅かに震えている。彼女の瞳には、過去のトラウマからくる恐怖と、そして目の前の強敵に対するプレッシャーが、色濃く浮かんでいた。
試合開始のコール。サーブ権は、永瀬さんからだ。
彼女は、緊張した面持ちで、ゆっくりとサーブの構えに入る。そして、放たれたのは、綺麗なフォームから繰り出される、鋭いバックスピン(下回転)がかかったショートサーブ。それは、彼女が本来持っているであろう、質の高い技術の片鱗を感じさせる一打だった。
相手ペアの一人が、そのサーブに対し、強靭な体幹と長いリーチを活かし、低い姿勢から、ボールを強引に持ち上げるかのような、力強いフォアハンドドライブを放ってきた!ボールは、唸りを上げて、私のバックサイド深くへと襲いかかる。
(…速い。そして、重い。これが、大学生レベルのパワーか…)
永瀬さんが、そのボールの威力に「あっ」と小さな声を漏らすのが、隣で聞こえた。
(この回転量、この威力…私の「実験」には、これ以上ないほどの入力データだ…)
私は、その強烈なドライブに対し、ラケットをスーパーアンチの面に瞬時に持ち替えた。そして、ボールのバウンドの頂点を正確に捉え、ラケット面をほぼ垂直に立て、ボールの持つ回転エネルギーを完全に吸収し、無効化する。
カツン、という乾いた、しかしどこか不気味な音が体育館に響く。
ボールは、相手のドライブの威力を完全に失い、回転も完全に消え失せ、まるで時間が止まったかのように、ネット際に、ぽとりと、ほとんど回転のないナックルボールとなって落ちた。「デッドストップ」。
相手の大学生は、力強いドライブが、まるで壁に吸い込まれるかのように「死んだ」ボールとなって返ってきたことに、完全に反応が遅れた。彼が慌てて前に踏み込み、そのボールを拾い上げようとするが、回転のないボールを持ち上げることは至難の業。彼のラケットは、ボールの下を虚しく擦り上げ、ボールは力なくネットにかかった。
静寂・永瀬 1 - 0 大学生ペア
「…え…?」
相手が、そして隣で、永瀬さんが、信じられないといった表情で私を見つめている。
私は、彼女に視線を戻すことなく、ただ平坦な声で告げた。
「…次のあなたのレシーブは、私の今の返球によって生まれた、相手の思考の僅かな『バグ』を突くことで、さらに有利な展開を構築できる可能性があります。準備してください。」
私のその言葉に、永瀬さんは、まだ戸惑いながらも、小さく、しかし確かに頷いたのだった。