オールコートラリー
体育館の一角で始まった、私と幽基未来さんとのラリー練習。それは、これまでの誰との練習とも異なる、異質な緊張感と、そして奇妙な共鳴に満ちていた。
(幽基未来…彼女のカットは、相手の回転を吸収し、変化させ、そして時には攻撃的なナックルとして相手コートに突き刺さる。ならば、こちらも、回転という概念そのものを揺さぶる戦術で応じる必要がある)
私は、まず、下回転をかけるかのような大きなテイクバックから、しかし実際には回転をほとんどかけない、超低空のナックルショートサーブを、未来さんのフォアサイド、ネット際にコントロールした。
未来さんは、そのサーブに対し、驚くほどの落ち着きで対応した。彼女は、ラケットを僅かに立て、ボールの落下点に滑り込むようにして、ボールの真下を、ごくごく薄く擦る。それは、カットマン特有の、鋭い下回転を生み出す「ツッツキ」。ボールは、低い弾道で、私のバックサイド深くに突き刺さる。
(…やはり、彼女の回転への理解度は極めて高い。並の選手なら、今のナックルサーブはネットにかけるか、あるいは甘く浮かせてしまう。だが、彼女は、回転がないことを見抜き、自ら強烈な回転を生み出して返球してきた…)
私は、その鋭いツッツキに対し、ラケットをスーパーアンチの面に瞬時に持ち替える。そして、ボールのバウンドの頂点を捉え、その強烈な下回転を、ラケット面で完全に吸収し、無効化する。
カツン、という乾いた音と共に、ボールは全ての回転と勢いを失い、「デッドストップ」となって、未来さんのコートのネット際に、ぽとりと落ちた。
「ああ…」
未来さんの口から、感嘆とも驚きともつかない、小さな声が漏れた。彼女は、その「死んだ」ボールに対し、長い脚を大きく前に踏み込み、低い姿勢から、ラケットの先端でボールを拾い上げるようにして、かろうじて返球する。そのボールは、山なりで、私のコートにチャンスボールとして返ってきた。
(…来た。この、相手の力を無に帰し、そしてこちらの土俵へと引きずり込む感覚。これこそが、私のアンチラバーの真骨頂だ)
私は、そのチャンスボールに対し、ラケットを裏ソフトの面に持ち替え、コンパクトなスイングから、未来さんのいないバックサイドへと、鋭いスマッシュを叩き込んだ!
ボールがコートを転がる。しばしの静寂。
「…静寂さん」やがて、未来さんが、その静かな、しかし強い光を宿した瞳で、私を見つめて言った。「あなたのその卓球…まるで、全てを『無』に帰してしまうかのようですね。相手の回転も、力も、そして予測すらも…」
「…それは、私の戦術の基本理念の一つです。」私は、平坦な声で答える。「不確定要素を可能な限り排除し、全ての事象を私の分析モデルの制御下に置く。そのための、最も合理的な手段です。」
「合理的な…手段…」未来さんは、その言葉を、何かを確かめるように繰り返した。「ですが、わたしには、あなたのその『無』の奥に、何か…とても、人間的な、強い『意志』のようなものを感じます。それは、単なる合理性だけでは説明できない、あなたの魂の…叫びのような…」
彼女の言葉は、またしても、詩的に私の思考の核心を、いとも容易く貫いてきた。
(魂の…叫び…?)
私は、ラケットの、スーパーアンチの面を、じっと見つめた。相手の回転を無効化する、この黒いラバー。それは、かつて、父の怒声や、同級生の悪意から、私の心を必死に守ってくれた「盾」。そして今、それは、私の「異端」を体現し、相手を打ち破るための「武器」となっている。
(このラバーは、私の弱さの象徴であり、そして同時に、私の強さの根源でもあるというのか…?)
私の中で、これまで言語化できなかった感情が、彼女とのこの「対話」を通じて、徐々に輪郭を帯び始めていた。
「…未来さん」私は、顔を上げ、彼女に向き直った。「もう一本、お願いします。今度は、あなたの『異質』なカットで、私のこの『無』を、切り裂けるかどうか…試してみてください。」
私のその提案に、未来さんの顔に、初めて、挑戦者のような、不敵な笑みが浮かんだ。
「…はい。喜んで、静寂さん。あなたのその『静寂な世界』、わたしのこのカットで、少しだけ、かき乱させていただきましょうか。」
体育館の一角で、異端と異質、二つの孤独な魂が、卓球という名の「対話」を通じて、今、確かに共鳴し始めていた。その様子を、部長は、腕を組み、ただ黙って、しかしその瞳の奥に強い興味の光を宿らせて見守っている。
先ほどまでの、ネット際での緻密な攻防とは打って変わり、今度は私が、未来さんというカットマンに対し、あえてドライブで攻め続けるという「実験」を開始した。
(幽基未来…彼女の「異質」なカットは、相手の回転と力を利用し、変化させることで真価を発揮する。ならば、そのカットそのものを、私のドライブで、そして私の「異端」で、破壊することは可能か…?)
私の心には、冷たい探求心と、そして目の前の好敵手に対する、純粋な闘争心が燃え上がっていた。
「未来さん、行きますよ。」
私のその一言を合図に、壮絶なラリーが始まった。
私が放つのは、ボールの軌道を高く、そして回転量を最大化した「ループドライブ」。ボールは、高い弧を描きながら、未来さんのコート深くへと、まるで生きているかのように食い込んでいく。
未来さんは、そのボールに対し、台から数歩下がり、低い姿勢から、ラケット面をボールの下に滑り込ませるようにして、強烈な下回転のカットで応戦する。彼女のラケットから放たれるボールは、私のドライブの回転エネルギーを、さらに増幅させたかのような、鋭い切れ味を持っていた。
(…やはり、彼女のカットの回転量は、並ではない。このループドライブの回転を、これほどのバックスピンで返球してくるとは…)
私は、その強烈な下回転カットに対し、今度は回転を殺し、ボールの芯を捉える「ナックルドライブ」で応酬する。ボールは、回転のない、しかし直線的で速い弾道で、未来さんのフォアサイドを鋭く襲う。
未来さんは、その球質の急激な変化に、一瞬だけ反応が遅れた。だが、彼女は驚異的な体幹とフットワークで体勢を立て直し、今度はラケット面を僅かに立て、ボールを押し出すようにして、ナックル性のカットで返球してきた。
(…ナックルには、ナックルで対応する、か。高度な技術が必要だが、合理的で、そして的確な判断だ…)
私たちのラリーは、まさに「異端」と「異質」の応酬だった。私がループドライブで回転をかければ、未来さんはそれを上回る下回転で返し、私がナックルドライブで回転を殺せば、彼女もまたナックル性のカットで応じる。
体育館の他の部員の一部たちは、練習の手を止め、私たちのこの、あまりにも異次元なラリーを、息をのんで見守っている。部長も、腕を組みながら、その表情には驚きと興奮が入り混じっている。あかねさんのペンは、タブレットの上を猛烈なスピードで走っていることだろう。
私は、さらに攻撃のギアを上げる。ループドライブ、ナックルドライブ、そしてスピードドライブ。それらを、左右に、そして長短を、緩急を織り交ぜながら、まるで烈火の如く、未来さんのコートに叩き込み続ける。
(この猛攻を、あなたはどこまで凌ぎ切れるか、未来さん…!)
だが、未来さんは、決して崩れない。彼女は、私の全ての打球に対し、まるで全てを予見していたかのように、最適なポジションに移動し、そして最も効果的なカットで、ひたすらに、そして淡々とボールを返し続ける。その姿は、荒れ狂う嵐の中で、静かに、しかし決して倒れることのない一本の柳の木のようだ。
彼女は、ただ、待っているのだ。私が、この猛攻の中で、ほんの僅かな隙を見せるのを。そして、その一瞬の隙を突き、鋭いカウンターで試合の流れを覆す、その絶好のチャンスを。
(…この感覚…まるで、県大会での青木桜選手との決勝戦のようだ。私の「攻撃」という名の問いかけに対し、彼女は「守備」という名の答えを、完璧に提示し続けている…)
私の額から、汗が流れ落ちる。体力も、集中力も、確実に消耗していく。
(だが、それでも…!)
私は、この「対話」をやめるつもりはない。私の「異端」のドライブが、彼女の「異質」なカットの壁を打ち破れるのか、あるいは、彼女のカットが、私の心を先に折るのか。
この、魂を削り合うようなラリーの応酬の中にこそ、私たちが求める「何か」の答えが、きっとあるはずだからだ。