不穏な気配(2)
その日の放課後、私は、未来さんやあかねさんと共に卓球部の部室へと向かっていた。未来さんが転入してきてから数日が経ち、彼女の存在は、まだ少しぎこちなさはあるものの、確実に部の空気の一部となりつつある。彼女の「異質」なカットと、私の「異端」な戦術の応酬は、部長や他の部員たちにとっても、良い刺激となっているようだった。少なくとも、表面上は。
部室の扉を開け、自分のロッカーへと向かう。そして、扉を開けた瞬間、私は、ほんの僅かな、しかし明確な「違和感」を感知した。
私の思考ルーチンが、瞬時に警告を発する。
ロッカーの中に置いていたはずの、私のタオルが、いつもとは違う畳まれ方をしている。そして、ラバーのメンテナンスに使うクリーナーボトルの位置が、数センチ単位でずれている。極めつけは、作戦分析のために使っているノート。それは、私がいつも置いている棚の定位置から、数ミリだけ、しかし意図的にずらされたかのように、少しだけ前に出ていた。
それは、他の誰が見ても、おそらくは気づかないであろう、あまりにも些細な変化。あるいは、誰かがうっかり触ってしまっただけ、そう結論付けるのが最も「普通」なのだろう。
だが、私の「静寂な世界」において、このような予測不能な、そして論理的根拠のない「変化」は、極めて重大なエラーログとして記録される。
「どうしたの、しおり?固まっちゃって」
隣で準備をしていたあかねさんが、不思議そうに私の顔を覗き込む。
「…いえ。問題ありません。ただ、いくつかの物品の空間座標に、軽微な変動が観測されただけです。」
私のその、あまりにも人間味のない返答に、あかねさんは「そ、そっか…?」と少し困ったような顔をしたが、それ以上は何も聞いてこなかった。
私は、表情を変えずに、ずらされたノートをいつもの定位置へと戻す。指先に残る、私以外の誰かが触れたであろう、微かな感触。
(犯人の特定は、現時点では不可能。動機も不明。だが、この行為の目的は明白だ。私の「静寂な世界」に、意図的にノイズを混入させ、私の思考ルーチンに負荷をかけること。そして、私がこの「異常」に気づき、動揺すること自体を愉しむという、極めて陰湿で、非効率的な精神攻撃…)
脳裏に、昼休みの教室での、青木れいかさんとその取り巻きたちの、嘲笑うかのような視線が蘇る。
(…やはり、あなたたちか)
確証はない。だが、私の分析モデルが弾き出す加害者のプロファイルは、ほぼ間違いなく彼女たちを示唆していた。
(くだらない…)
心の奥底で、冷たい感情が湧き上がる。それは、怒りというよりも、むしろ、このような非合理的な悪意にリソースを割かなければならないことへの、純粋な苛立ちに近い。
(だが、これもまた、新たな「変数」だ。彼女たちの行動パターン、その目的、そして、それが私や、あかねさん、未来さんといった周囲のパラメータにどのような影響を与えるのか…。これもまた、私の分析対象の一つに過ぎない…)
私は、いつも通りに冷静に、そして冷徹に、そう結論付ける。
しかし、その一方で、私の「静寂な世界」の壁に、また一つ、小さな、そして確実な亀裂が入ったのを、私自身はまだ、気づいていないのかもしれない。見えない悪意は、こうして、静かに、そして確実に、私の日常を侵食し始めていたのだ。
部室で感じた、私のロッカーの中の、ほんの僅かな、しかし明確な「違和感」。それは、私の「静寂な世界」に投げ込まれた、小さな石礫のようだった。私は、表情を変えずにその違和感をデータとして記録し、いつも通りに練習の準備を始める。だが、心の奥底では、この静かな侵食が、いずれ大きな波紋となって広がることを、私の分析モデルは警告していた。
体育館へ移動し、私はいつものように卓球マシンを使って、特定のコースに来るボールに対するレシーブ練習を繰り返そうとした。私の新たな武器である「アンチラバーでのナックルドライブ」や、「マルチプル・ストップ戦略」の精度を高めるためには、寸分の狂いもない、機械的で正確なボール出しが不可欠だからだ。
電源を入れ、設定を調整する。だが、マシンはウィーンという僅かな起動音を立てただけで、すぐに沈黙してしまった。
(…故障だろうか?)
私は、何度か電源のオンオフを繰り返すが、結果は同じだった。
「お、どうした、しおり?マシン、壊れたか?」
隣の台で練習していた部長が、異変に気づいて声をかけてくる。
「…その可能性が高いと判断します。電源系統か、あるいはボール射出機構の物理的な故障か…」
私は、そう答えながら、マシンのボール射出口を屈んで覗き込んだ。そして、そこに、私の分析モデルが予測していなかった「異常値」を発見する。
射出口の内部、ボールを送り出すためのローラーのゴム部分に、まるで鋭利な何かで故意につけられたかのような、不自然な傷が数本、深く刻まれていたのだ。そして、その傷の周辺には、見慣れない、微細な金属片のようなものが付着している。
(…これは、単なる経年劣化による故障ではない。明確な「意図」を持った、物理的な破壊行為だ)
私の思考が、一瞬、氷のように冷たくなる。作戦メモの紛失、ロッカーの中の違和感、そして、この卓球マシンの破壊。全ての事象が、一本の、悪意に満ちた線で繋がっていく。
(青木れいか…あなたの攻撃は、ついにこの領域にまで達したというのか…)
「うーん、そりゃ厄介だな。先生に連絡してみるか」
何も気づいていない部長が、のんきな声で言う。私は、この「傷」のことは、まだ誰にも告げないことにした。確たる証拠がない以上、それは憶測の域を出ず、部内に無用な混乱と疑心暗鬼を生むだけだと判断したからだ。
マシンの練習ができなくなった私は、次の練習メニューを思考ルーチンで組み立て直そうとしていた。サーブ練習が現実的だろうか。
その時、静かな声が、私の思考に割り込んできた。
「静寂さん。」
声の主は、少し離れた場所で、カットの素振りを繰り返していた幽基未来さんだった。彼女は、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。その瞳には、いつものように、静かだが、しかし強い意志の光が宿っていた。
「もし、よろしければ…そのマシンの代わりに、わたしがあなたの練習相手を務めさせてもらっても、いいですか。」
彼女のその提案に、私は少しだけ意外なものを感じた。
「…あなたのカットと、私のレシーブ練習では、目的とするデータ収集のパラメータが異なりますが。」
「ええ、存じています。」未来さんは、静かに頷いた。「ですが、わたしが希望するのは、マシンのような単調なものではありません。オールコートを使った、より実践的なラリー練習です。あなたのその技術が、わたしのカットに対し、どのように機能するのか…そして、その逆もまた然り。それを、試してみたいのです。」
彼女の言葉には、県大会準決勝で私と戦った時とは異なる、純粋な探求心と、そして私との「対話」を求めるような、強い響きがあった。
(オールコートでの、実践的なラリー練習…確かに、マシン練習では得られない、予測不能な変数に対する対応能力を検証する、良い機会だ。そして何よりも、幽基未来という、私の分析モデルをもってしてもまだ完全には解析しきれていない…そのデータを収集できるのは、非常に有益だ…)
私は、彼女の提案を、瞬時に分析し、その合理性を認めた。
「…承知しました、未来さん。あなたのその提案でいきましょう。…興味深い実験ができそうですね。」
私のその言葉に、未来さんの顔に、ほんのわずかだが、確かな喜びの色が浮かんだ。
「お、おい、しおり!未来!お前ら、二人で打ち合うのか!?」
部長が、興奮したような、そしてどこか面白がるような声を上げる。あかねさんも、タブレットを片手に、興味津々といった様子で私たちの台の近くへとやってきた。
体育館の一角で、これから始まろうとしている、あまりにも特異な二人の練習。それは、「異端の魔女」と「異質なカットマン」による、誰にも予測できない、未知のラリーの始まりだった。そして、その背後には、私たちの日常を静かに、しかし確実に侵食し続ける、見えない「悪意」の影が、確かに存在していたのだ。