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異端の白球使い  作者: R.D
二学期編
220/674

不穏な気配

 再び制服に袖を通す日々が始まった。私の「静寂な世界」を取り巻く空気は、夏休み前とは明らかにその色合いを変えていた。それは、まるで水の中に、一滴ずつ、しかし確実に毒が垂らされていくような、静かな侵食だった。

 昼休み、教室はそれぞれのグループの他愛ない会話と、弁当の匂いで満たされている。私は、いつものように窓際の席に座り、一人で昼食を摂っていた。私の弁当は、栄養バランスと摂取カロリーだけを考慮した、彩りのない機能的な食事。その傍らでは、新しいタブレット端末が、次のブロック大会で対戦する可能性のある選手の試合映像を、無音で再生し続けている。私の思考は、その画面に表示される無数のパラメータの分析に没入していた。周囲の喧騒は、本来なら私の「静寂な世界」には届かないはずだった。

 だが、最近、その「壁」を透過してくる、質の悪い「ノイズ」が増えた。

 教室の中央、数人の女子生徒に囲まれて、青木れいかさんが、わざとらしく大きな身振りで話している。その声のトーンと、時折こちらに向けられる冷ややかな視線が、彼女の会話の主題が誰であるかを、明確に示していた。

「ねえ、県大会の決勝、見た人の話だと、静寂さんの卓球って、なんかすごい勝ち方だったらしいよ」

 一人が、周囲の注目を集めるように言う。

「え、すごいの?良い意味で?」

「ううん、逆。相手の心を折るまで、じわじわ追い詰めるような…見てて不快になるっていうか…」

「アンチラバーだっけ?ああいう特殊なラバーに頼るのって、なんかズルいよね。正々堂々としてない感じ」

「分かるー。だから、何考えてるか分からなくて、ちょっと怖いんだよね…」

(…またか。論理的根拠を欠いた、感情的な情報操作。私の「異端」な戦術を「卑劣な行為」へと意図的に変換し、私の評価を低下させ、孤立を狙う。幼稚だが、集団心理を利用した効果的な戦術ではある)

 私は、それらのノイズを冷静に分析し、自身のパフォーマンスに影響を与えないよう、思考ルーチンから排除しようと努める。指先は、タブレットの画面を滑り、対戦相手のサーブの回転数を記録していく。

 しかし、その時、私の背後を通りかかった男子生徒が、れいかさんたちの会話に同調するように言った。

「あー、静寂しおりな。確かに、試合見たけど、なんか気味悪かったわ。勝ったからって、調子乗ってる感じがさ」

 その言葉は、もはや囁き声ではない。明確に、私、そして私の周囲にいるクラスメイトたちに聞かせるための「悪意」だった。

 教室の空気が、一瞬だけ、ぴたりと止まる。何人かの視線が、私へと突き刺さる。同情、好奇、そして…軽蔑。

(…攻撃の対象範囲が、拡大している。青木れいかの情報操作が、彼女の直接的な影響下にない生徒にまで、効果を及ぼし始めている証拠だ…)

 私の思考は、冷静に状況を分析しようとする。だが、心の奥底で、何かが微かに、しかし確かに軋むような音を立てていた。以前のような完全な「静寂」を保つことが、難しくなっているのかもしれない。

(…これが、あかねさんが言っていた「悲しい」という感情に近いものなのか…?非合理的だ。だが、この胸の奥で微かに疼くこの感覚は、否定できない…)

 小学三年生の、あの教室の冷たい空気。誰にも理解されず、孤立していた、あの頃の記憶。それらが、不意に、今のこの状況と重なりそうになる。

 私は、その不快な思考のループを断ち切るように、タブレットの画面に、より一層意識を集中させる。表情は変えない。呼吸も乱さない。私は、ここに存在しない。私は、ただの観測者だ。この教室という閉鎖空間で繰り広げられる、人間の稚拙な集団行動を分析する、ただの機械だ。

 そう、自分に言い聞かせる。

 れいかさんたちのグループから、クスクスという、満足げな笑い声が聞こえた。私のこの「無反応」という反応が、彼女たちにとっては、新たな勝利であり、そして次の攻撃への布石なのだろう。

 昼休み終了のチャイムが鳴るまで、私は、一度も顔を上げることはなかった。タブレットの画面には、膨大なデータが表示され続けていたが、そのうちのいくつが、私の思考ルーチンに正常に記録されたのか、私自身にも、もう分からなかった。

 私の「静寂な世界」の壁に、また一つ、小さな、しかし確実な亀裂が入ったような気がした。

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