ナックルボール?(2)
私の「超低空ナックルロングサーブ」の検証、そしてスーパーアンチを用いた「デッドストップ」の進化形。それらを目の当たりにした部長と未来さんの間では、しばらくの間、ナックルボールの厄介さについての議論が交わされていた。あかねさんは、二人の専門的な、あるいは感覚的な解説に、目を丸くしながらも熱心に耳を傾けている。
「…つまり、回転がないボールっていうのは、ただ回転がないだけじゃなくて、空気抵抗で揺れたり、バウンドがおかしかったり、こっちのラケットの面で滑ったりして、とにかく『普通じゃない』から難しいってことなんだね!」
あかねさんが、ようやく納得したように大きく頷く。
未来さんも、その言葉に静かに同意した。「はい、三島さん。そして、静寂さんのあの黒いラバー…スーパーアンチラバーは、その『普通じゃない』を、さらに予測不能な領域へと増幅させます。相手の回転を吸収し、完全に『無』へと変換するだけでなく、ボールに微細な、しかし予測不能な変化を与える。それは、まるで…」
未来さんは、そこで一度言葉を切り、私の顔をじっと見つめた。その瞳には、畏怖と、そして深い興味が混じり合っている。
「…まるで、静寂さん自身の『静寂な世界』が、ボールに乗り移っているかのようです。相手の全てを『無』に帰し、そしてその『無』の中から、新たな『何か』を生み出す…」
その、あまりにも詩的で、そして私の本質を的確に射抜いているかのような未来さんの言葉に、私は内心、僅かな動揺を覚えた。だが、私の表情は変わらない。
(幽基未来…彼女の分析力は、やはり並ではない。私のナックルの特性を、ここまで正確に言語化するとは…)
その時、腕を組んで黙って二人の会話を聞いていた部長が、ふと、重々しく口を開いた。
「…まあ、未来の言う通り、しおりのあのナックルは、受ける側にとっちゃ悪夢みてえなボールだ。俺も、未来も県大会で戦った奴らはみんな、あれに散々苦しめられてきた。」
彼の声には、実感がこもっている。
「だがな、しおり」部長は、今度は真っ直ぐに私を見据えた。「お前のあのナックル、確かにすげえ武器だ。だが、あれを操るのが、どれだけ大変なのか…その『持ち主』であるお前から、こいつらにも少し説明してやってくれよ。ただでさえ異端なアンチラバーで、あんな『死んだボール』を、しかもあれだけの精度でコントロールし続けることの難しさ、そして…その代償をな。」
部長の言葉は、私の「異端」の輝かしい側面だけでなく、その裏に潜む困難さとリスクにも触れるものだった。
私は、彼のその真剣な眼差しを受け止め、静かに口を開く。
「…部長のおっしゃる通り、私のナックル技術、特にスーパーアンチラバーを用いた変化は、いくつかの重大な欠陥を内包しています。」
あかねさんと未来さんが、固唾をのんで私の言葉に耳を傾けているのが分かる。
「第一に、ナックルボール、特に私が意図的に生み出すボールは、ボールの推進力を極限まで殺すため、インパクトの瞬間のラケット角度、打点、そして力の入れ具合が、数ミリ、数グラム単位で要求されます。その精度を維持するためには、極度の集中力と、膨大な反復練習による身体感覚の最適化が不可欠です。それは、私の精神的リソースを著しく消費させます。」
私は、そこで一度言葉を切り、続ける。
「第二に、相手がその『無回転』という球質に慣れてきた場合、あるいは私の僅かなコントロールミスによってボールが甘く入った場合、ナックルボールは格好の攻撃対象となります。回転がない分、相手は自分の好きなように回転をかけ、強打することができる。つまり、私のナックルは、常に『チャンスボール』と隣り合わせの、諸刃の剣なのです。」
「…だから、しおりはいつも、相手の予測の外側に回り続けないといけない、ということか…」
部長が、何かを理解したように呟く。
「その通りです。私の戦術は、常に相手の思考の前提を破壊し、予測不能な変化で主導権を握ることを基本としています。ナックルボールという『静』の武器と、裏ソフトでの『動』の攻撃、そしてラバーチェンジや模倣といった『奇』の要素。それらを複雑に組み合わせ、相手の分析モデルがエラーを起こすような状況を意図的に作り出す。そのために、私は試合中、常に相手の行動パターン、心理状態、そして僅かな変化を分析し続け、最適解を導き出す必要があるのです。それは…正直に言って、非常に骨の折れる作業です。」
私の言葉には、普段は決して表に出すことのない、ほんのわずかな「苦労」のニュアンスが滲んでいたのかもしれない。
あかねさんが、心配そうに私の顔を覗き込む。「しおり…そんなに大変なことを、いつも一人で…」
未来さんもまた、静かな、しかし共感のこもった眼差しで私を見つめている。「…あなたのその『異端』は、計り知れないほどの精神力と、そして孤独な探求心によって支えられているのですね…」
私は、二人のその言葉に対し、肯定も否定もせず、ただ静かに、自分のラケットを見つめた。
(私の「異端の白球」。それは、確かに多くのリスクと困難を伴う。だが、それこそが、私が私であるための、唯一の戦い方なのだから…)
この卓球部という、新たな「実験場」で、私の「異端」は、そして私自身は、これからどのように「深化」していくのだろうか。その答えは、まだ、誰にも予測できない。