ナックルボール?
私の新たな「実験」――同じテイクバックモーションからの多種多様なサーブの打ち分け、そしてスーパーアンチを用いた「デッドストップ」の進化形――は、部長と、そして今日から正式に第五中学校卓球部の一員となった幽基未来さんという、二人の格好の「実験台」兼「分析対象」を得て、有意義なデータ収集と共に一旦の区切りを迎えた。
部長は「お前のその訳の分からんボール、もう勘弁してくれ!」と頭を抱えながらも、その表情にはどこか新しい技術に触れたことへの興奮が残っている。未来さんは、静かにラケットを置き、私の繰り出すボールの軌道や、それに対する部長の反応を、熱心に自身のノートに記録しているようだった。彼女のその探求心は、私自身の分析欲と共鳴する何かを持っている。
そんな中、ずっと私たちの練習を真剣な眼差しで見守り、そして時折小さなどよめきを上げていたあかねさんが、タオルとドリンクを配りながら、不思議そうに未来さんに問いかけた。
「未来さん、さっきのしおりのサーブとかブロックとか、部長先輩もすごく取りにくそうにしてたけど…回転がないボールって、やっぱりそんなに難しいの?私、卓球始めたばかりだからよく分からないんだけど、回転がいっぱいかかってる方が、もっとこう、グニャって曲がったりして大変なのかなーって思ってたんだけど…」
彼女の純粋な疑問は、卓球という競技の奥深さの一端に触れた者の、素直な探求心の発露だった。
未来さんは、その問いに対し、ノートから顔を上げ、あかねさんに優しく微笑みかけた。その表情は、県大会の時のようなミステリアスな雰囲気ではなく、新しい仲間に対する親愛の情に満ちているように、私には見えた。
「あかねさん。卓球において、ボールの回転は、その後の軌道やバウンドの変化を予測するための、非常に重要な情報となります。トップスピン(上回転)がかかっていればボールは沈み込むように伸び、バックスピン(下回転)がかかっていればボールは浮き上がり、あるいはネット際に短く落ちようとします。選手は、その回転の種類と量を見極め、適切なラケット角度とスイングで対応するわけです。」
彼女の言葉は、常に論理的で明快だ。
(幽基さんの回転に対する理解は、やはりカットマン特有の深さがある。彼女の「異質」なカットもまた、この精密な分析が根底にあるのだろう…)
未来さんは続ける。
「ですが、ナックルボール、つまり回転のないボールは、その予測の前提となる『回転情報』が欠落しています。そのため、まず、ボールがラケットに当たった際の反発方向が、回転のあるボールとは大きく異なるのです。例えば、下回転のボールを持ち上げようとしてラケット面を上に向けると、ナックルボールの場合はそのままボールが上に浮き上がり、オーバーミスに繋がりやすくなります。逆に、トップスピンを抑えようとして面を被せると、ネットに突き刺さる。つまり、相手は常に、回転のあるボールとは逆の、あるいは全く異なる対応を瞬時に判断し、実行する必要に迫られるのです。」
「へえー!そうなんだ!じゃあ、回転がかかってない方が、逆に迷っちゃうってことなんだね!」あかねさんが、感心したように声を上げる。
そこへ、腕を組んで二人の会話を聞いていた部長が、豪快に口を挟んだ。
「まあ、未来の言う通りなんだがよ、あかね。もっと分かりやすく言うとだな、回転がかかってるボールってのは、いわば『クセの強い奴』なんだよ。一見扱いにくそうだけど、そのクセさえ読んじまえば、こっちも『こう来たらこう返す』ってパターンが見えてくる。だがな、ナックルってのは、その『クセ』が全くねえ、のっぺらぼうみてえな奴なんだ。だから、こっちがいつもの調子でラケットに当てようとすると、ボールがラケットの上をツルン、と滑るみてえな感触で、全然言うことを聞いてくれねえんだよ!」
(部長の比喩表現…非科学的だが、ナックルボールの持つ「掴みどころのなさ」という本質を、ある意味で的確に捉えている。興味深い言語運用パターンだ…)
「のっぺらぼう…」あかねさんが、その言葉の響きに、少しだけ眉をひそめる。
「おうよ!特に、しおりが今日見せたみてえな、あの『超低空ナックルロングサーブ』!あれは最悪だ!下回転かと思って思いっきり振り抜こうとしたら、全然回転かかってねえから、ボールがラケットの下を通り過ぎるか、変なとこに当たる。かといって、ナックルだと分かって合わせようとしても、あの低さとスピードじゃ、まともにミートできねえ!完全にタイミングと体勢を崩される。まさに、どうすりゃいいんだよ!?って、パニックになるわけよ!」
部長は、身振り手振りを交え、まるで自分が今まさにそのサーブを受けているかのように熱弁する。その剣幕に、あかねさんは少しだけ気圧されているが、未来さんは静かに、しかしその瞳の奥に強い分析の光を宿らせて頷いていた。
「部長さんのおっしゃる通りです」未来さんが、静かに補足する。「回転がないということは、空気抵抗の影響も受けやすく、ボールの軌道が微妙に揺れたり、バウンド後に不規則に滑ったり、あるいは逆に急激に失速したりすることもあります。その『予測不能な揺らぎ』もまた、ナックルボールを処理しにくくさせる大きな要因の一つですね。そして…」
未来さんは、そこで一度言葉を切り、私のラケットのスーパーアンチの面に視線を向けた。
「静寂さんのあの黒いラバー…スーパーアンチラバーは、そのナックルの質を、さらに特異なものへと増幅させます。相手の回転を吸収し、完全に『無』へと変換するだけでなく、ボールに微細な、しかし予測不能な変化を与える。それは、まるで生きているかのように、相手の最も嫌がる場所へと、ボールが自ら吸い寄せられていくような…そんな感覚にさえ陥ります。私が県大会で対戦した時も、あなたのその『静寂のナックル』には、最後まで対応しきれませんでした。」
彼女の言葉には、同じ「異質」な卓球を操る者としての、私への深い敬意と、そしてそれをどう攻略するかという、純粋な探求心が滲んでいた。
「なるほどー!回転がないボールって、ただ回転がないだけじゃなくて、そんなに色々な難しさがあって、しおりのラバーと技術が合わさると、もっともっとすごくなるんだね!勉強になりました!」
あかねさんは、目を輝かせながら、未来さんと部長の解説を熱心に聞き入っている。その素直な吸収力と探求心は、彼女のマネージャーとしての資質を、そして人間としての成長を促す、重要なパラメータなのだろう。
私は、三人のその会話を、静かに観察していた。
(ナックルボール…回転という情報を削ぎ落とし、相手の予測モデルを混乱させる。それは、私の「静寂な世界」の、最も基本的な戦術思想の一つだ。だが、彼らの言葉を聞いていると、その「無回転」という現象が、それぞれのプレースタイルや感性によって、これほどまでに多様な解釈と対応を生み出すという事実は、私にとっても新たな分析対象となる…私の「異端」なナックル技術は、彼らとのこの「対話」を通じて、さらにその深淵を覗かせようとしているのかもしれない。そして、その先にあるものが何なのか、今の私にはまだ、予測できない。)
この卓球部という、新たな「実験場」で、私の、そして私たちの物語は、まだ始まったばかりなのだ。