実験(2)
私が放った「超低空ナックルロングサーブ」の余韻が、まだ体育館の一角に漂っている。部長は、そのあまりにも異質なサーブの残像を追いかけるかのように、何度も首を傾げ、そして私のラケットとボールの軌道を交互に見つめている。彼の「王道」の卓球理論では、あのサーブのメカニズムと効果は、まだ完全には解析できていないのだろう。
そんな中、私たちの練習を固唾をのんで見守っていたあかねさんが、先ほどの部長と未来さんの解説を受けて、興奮冷めやらぬといった様子で口を開いた。
「しおりのナックルサーブって、やっぱりそんなにすごかったんだね!部長先輩も、未来ちゃんも、あんなにびっくりするくらいだもん!」
その言葉に、部長が「おうよ!しおりのナックルは、ただ回転がねえだけじゃねえんだ。なんて言うか…ボールが『死んでる』のに、意志を持ってるみてえに、こっちが一番嫌なとこに、一番嫌なタイミングで来るんだよ!」と、熱っぽく同意する。その声には、私のサーブを何度も受けてきた彼だからこその実感が込められていた。
その会話を聞いていた未来さんが、静かに、しかしその瞳の奥に強い探求心を宿らせて、私に問いかけた。
「静寂さん…あなたのその『ナックル』という技術。それは、単に回転をかけないというだけでなく、何か…ボールの持つエネルギーそのものを制御し、そして相手の予測モデルを根底から破壊するような、特殊なアルゴリズムに基づいているように、私には感じられます。もしよろしければ、もう少しだけ拝見させていただいてもよろしいですか。」
彼女の言葉は、私の「異端」の本質を、的確に捉えようとしていた。県大会で一度対戦し、そして花火大会の夜に少しだけ言葉を交わしたことで、彼女の私に対する分析は、さらに深化しているのかもしれない。
(幽基未来…彼女の分析力は、やはり並ではない。私のナックルの特性を、ここまで正確に言語化するとは…面白い。ならば、彼女に、私の「静寂な世界」を、見せよう…)
私は、部長に目配せし、彼に強烈なトップスピンのドライブを打ってもらう。ボールは、唸りを上げて私のフォアサイドへと迫ってくる。
私は、そのボールに対し、ラケットをスーパーアンチの面に瞬時に持ち替えた。そして、インパクトの瞬間、ラケット面をほぼ垂直に立て、ボールの持つ回転エネルギーを完全に吸収し、無効化する。だが、それは単なるブロックではない。私は、ボールがラケットに触れるほんの一瞬、指先の感覚を極限まで研ぎ澄ませ、ボールの中心軸から僅かにずれた一点に、ほんのわずかな、しかし明確な「圧」を加える。
放たれたボールは、部長のドライブの威力を完全に失い、回転も完全に消え失せ、まるで時間が止まったかのように、ネット際に、ふわりと、しかし予測不能な微かな揺らぎを伴いながら、ぽとりと落ちた。それは、私が得意とする「デッドストップ」の、さらに進化した形。ただ回転を殺すだけでなく、ボールの持つ「生命力」そのものを奪い去り、相手コートに「死」を宣告するかのような一打。
「なっ…!?」
部長は、そのあまりにも「死んだ」ボールに、一瞬反応が遅れ、慌てて前に踏み込むが、ラケットは虚しく空を切る。
あかねさんも、その異様な光景に「ひゃっ…!」と小さな悲鳴を上げ、ノートを持つ手が震えているのが見えた。
そして、私は、その光景を息をのんで見つめていた未来さんの表情の変化を、見逃さなかった。
彼女の、いつもは感情を読み取らせない静かな瞳が、ほんのわずかに見開かれ、そして次の瞬間、そこには驚愕と、畏怖と、そして何よりも強い「共感」にも似た、複雑な光が宿っていた。
「…今の…ボール…」未来さんの唇が、微かに震えている。「回転がない…だけではない。これは…静寂さんの、心の奥底にある『静寂』そのものを、ボールに投影しているとでもいうのでしょうか…?相手の全てを『無』に帰し、そしてその『無』の中から、新たな『何か』を生み出す…。」
彼女の言葉は、もはや分析ではなく、詩的な、あるいは哲学的な領域にまで踏み込んでいる。だが、不思議と、それは私の「異端」の本質を、誰よりも正確に捉えているような気がした。
(幽基未来…あなたは、やはり、私の最高の「分析対象」であり、そして最も手強い「理解者」なのかもしれない…)
私は、彼女のその言葉に対し、肯定も否定もせず、ただ静かに、次のサーブの構えに入った。私の「異端の白球」は、この新たな「共鳴者」の出現によって、さらに予測不能な進化を遂げようとしていた。そして、その進化の先にあるものを、この第五中学校卓球部という、新たな「実験場」で、私は見つけ出すことができるのだろうか。