実験
体育館に、乾いたボールの音と、鋭い呼気が響く。私の隣には、先ほどまでの「実験」の興奮冷めやらぬといった表情の部長と、静かながらもその瞳の奥に強い探求心を宿らせた幽基未来さんが立っている。これから始まるのは、私の新たなサーブ戦術――あの県大会決勝で青木桜選手を翻弄した、同じテイクバックモーションからの多種多様な球質の打ち分け、そしてその中に潜む「超低空ナックルロングサーブ」の検証だ。
「部長、そして幽基さん」私は、二人に向き直り、いつも通りの平坦な声で告げた。「これから、私がサーブを打ちます。モーションは全て同じ、下回転をかけるかのような大きなテイクバックです。そこから、ナックル、下回転、横下回転を、ショートとロングを織り交ぜて打ち分けます。お二人には、それを一球ずつ、交互にレシーブしていただきたい。そして、可能であれば、そのボールの質と、対応の難しさについて、言語化してフィードバックをお願いします。」
私のその、あまりにも淡々とした「実験依頼」に、部長は「おう!面白そうじゃねえか!」とニカッと笑い、未来さんは「…承知しました、静寂さん。非常に興味深いです」と静かに頷いた。
まず、私が放ったのは、モーション通りの、強烈な下回転ショートサーブ。部長が、それを力強いツッツキで返球する。
次に、同じモーションから、今度はナックル性のショートサーブ。未来さんが、それをラケット面を巧みに合わせ、低く、短くコントロールしてくる。
さらに、同じモーションから、今度は鋭い横下回転ショートサーブ。部長が、僅かに体勢を崩しながらも、なんとかドライブで持ち上げる。
数本のサーブを打ち分けた後、私は、ついにあの「切り札」を混ぜることにした。
(…ここだ)
モーションは、これまでと全く同じ、下回転をかけるかのような大きなテイクバック。だが、インパクトの瞬間、私の指先、手首、そして腕全体が、全ての回転を殺し、ボールの推進力だけを最大限に利用して、ネットすれすれの、文字通り数ミリの高さを、矢のようなスピードで相手コート深くへと突き刺す――超低空ナックルロングサーブ!
ボールは、まず部長のフォアサイド深く、彼が最も得意とするドライブの打点よりも僅かに低く、そして速く突き刺さった。
「うおっ!?」
部長は、咄嗟にラケットを出すが、ボールはラケットの下をすり抜けるようにして、エースとなる。彼の顔には、純粋な驚きと、「今の、一体何なんだ!?」という興奮に近い困惑が浮かんでいる。彼のようなパワードライブプレイヤーにとって、あの低さで、回転がなく、しかも高速で食い込んでくるロングサーブは、最も処理に窮する種類のボールだろう。ドライブで持ち上げようにも回転がなく、ミートしようにも打点が低すぎる。まさに、八方塞がりだ。
次に、同じ「超低空ナックルロングサーブ」を、今度は未来さんのバックサイド深くへと送り込む。
未来さんは、そのサーブに対し、一瞬動きが止まった。そして、ボールが彼女のコートに突き刺さった後、静かに、しかしその瞳の奥に強い分析の色を浮かべて呟いた。
「…今のサーブ。非常に、興味深いです。わたしたちカットマンは、相手のボールの回転量とコースを予測し、それを吸収あるいは変化させて返球するのが基本。ですが、今のあなたのサーブは…まず、あの大きなモーションから、あれほどまでに回転のない、そして低い弾道のロングサーブが来るという予測自体が、極めて困難でした。」
部長が「だよな!?ありゃ反則だろ!」と、未来さんの分析に同意するように声を上げる。未来さんは、それに小さく頷き、続ける。
「そして、実際にボールが来てみると、回転がないために、カットで変化をつけようとしても、ラケット面でボールが滑るだけで、自分の意図した回転を生み出せない。かといって、ナックルボールとして処理しようにも、あの低さとスピードでは、安定してコントロールするのは至難の業です。強打を誘うための『死んだボール』とは、明らかに性質が異なる…あれは、相手の全ての予測と技術の前提を覆す、まさに『魔のサーブ』とでも言うべきものでしょうか…」
彼女の冷静な分析の中にも、この未知のサーブに対する、ある種の戦慄と、そしてそれをどう攻略するかという、カットマンとしての、そして一人の卓球選手としての強い探求心が感じられた。
(…やはり、このサーブは、あらゆるプレースタイルの選手に対し、有効な「ノイズ」となり得る。だが、その成功率は、まだ低い。さらなるデータの蓄積と、再現性の向上が不可欠だ…)
私は、二人の反応――一方は感情を爆発させ、もう一方は静かに分析する――という対照的な、しかしどちらも私の「異端」に対する強烈な興味を示すデータを冷静に収集しながら、次の「実験」へと意識を移行させる。この「予測不能の魔女」としての私の進化は、まだ始まったばかりなのだから。