過去の苦味(2)
私の、あまりにも直接的で、そして感情を排した問いかけに、部長は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳の奥には、深い悲しみと、そしてほんの僅かな…しかし確かな「希望」のような光が揺らめいていた。
「…しおり。お前は、本当に、何でもかんでも分析しねえと気が済まねえんだな。」
彼は、そう言って、コーヒーカップを手に取り、一口、音を立てて啜る。その仕草は、何か重い話を始める前の、彼なりの儀式なのかもしれない。
「まあ、いい。お前に隠し立てしても、どうせお前のその『分析』とやらで、全部見透かされちまうんだろうからな。」
彼は、自嘲するように小さく笑い、そして、窓の外の、夏の終わりの気配を漂わせ始めた街並みに視線を向けた。
「風花…滝沢風花はな、俺と後藤にとっては、ただの幼馴染じゃなかった。あいつは…俺たちにとって、太陽みてえな存在だったんだよ。」
彼の声は、いつになく静かで、そして遠い過去を慈しむような響きを帯びている。
「三人で、毎日馬鹿みてえに卓球ばっかりやってた。風花は、ドライブマンとしての才能もずば抜けてたが、それ以上に、あいつの卓球には華があった。見てる奴ら全員を笑顔にしちまうような、そんな不思議な力があったんだ。」
(太陽…華…私のデータベースには存在しない、しかし、人間の感情パラメータに強い影響を与えるであろう、抽象的な概念だ。滝沢風花という人物は、単なる「王道のドライブマン」というカテゴリでは分類できない、特異な変数を持っていた可能性が高い…)
「後藤も、俺も、風花に追いつきたくて、必死で練習した。あいつがいれば、俺たちは、どこまでだって行けるって、本気でそう思ってたんだ。…中学一年の、あの県大会まではな。」
部長の言葉に、翳りが差す。
「風花は、圧倒的な強さで県大会を勝ち進んだ。俺も後藤も、自分の試合そっちのけで、あいつの試合に釘付けだったよ。決勝も、相手を寄せ付けずにストレート勝ち。誰もが、あいつの優勝を確信してた。」
そこで、部長は一度言葉を切り、コーヒーカップをテーブルに置いた。カチャン、という小さな音が、店内に静かに響く。
「だがな、しおり。その決勝戦の後だ。全てが、狂い始めたのは。」
彼の声が、低く、そして重くなる。
「風花が…一部の、どこの誰とも分からねえ奴らからの、くだらねえ誹謗中傷で…心を、壊しちまったんだ。」
その言葉は、私の思考ルーチンに、鋭い痛みと共に突き刺さる。県大会の控え場所で、彼が後藤選手に語っていた内容と一致する。だが、その詳細までは、私はまだ知らない。
「最初は、本当に些細なことだったんだ。匿名掲示板での、くだらねえ書き込み。『滝沢風花、調子に乗ってる』『あいつの卓球、見ててイライラする』…そんな、どこにでもあるような、ガキの嫉妬だ。俺も後藤も、最初は笑い飛ばしてた。風花自身も、最初は気にしてねえようだったしな。」
(匿名掲示板…不特定多数による、責任の所在が曖昧な情報拡散。対象の精神的ダメージを最大化させる上で、極めて効率的な手段の一つだ…)
「だがな、その書き込みは、日に日にエスカレートしていったんだ。『滝沢風花は、審判を買収している』『あいつの卓球は、ただのまぐれだ』…そして、いつしか、それは学校の噂話として、俺たちの耳にも直接届くようになった。最初は、一部の、おそらく俺か後藤のどっちかに好意を寄せていた女子生徒のグループが中心だったんだろう。風花が、俺たちと親しすぎるのが、気に入らなかったのかもしれねえな…」
(誹謗中傷…匿名の悪意。それは、論理的な反論を許さず、対象の精神を確実に蝕んでいく、最も卑劣な攻撃手段の一つだ。特に、滝沢風花が「太陽のような存在」であったのなら、その光を妬む者たちの格好の的となった可能性は否定できない…)
私は、かつて自分自身も向けられた、あの「異端」を見るような冷たい視線や、心ない言葉の断片を思い出していた。
「そして、ある日、あいつは…学校に来なくなった。卓球部にも、顔を出さなくなった。」
彼の声には、当時の無力感と、そして今もなお消えない後悔が、痛々しいほどに滲み出ていた。
「…なぜ、気づけなかったんでしょうか。」
私は、静かに、しかし彼の心の奥底に問いかけるように言った。
「あなたがたは、幼馴染だった。誰よりも彼女の近くにいたはずです。彼女のその変化の兆候を、なぜ早期に検知し、適切な対応を取ることができなかったのですか?」
私の言葉は、冷徹な分析に基づいた、純粋な疑問。だが、それは、今の彼にとっては、あまりにも残酷な問いかけだったのかもしれない。
私の問いかけに、部長は、一瞬、息をのんだ。そして、ゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。その瞳の奥には、深い悲しみと、そして…私に対する、ほんのわずかな、しかし確かな「何か」が揺らめいていた。それは、私にはまだ正確に分析できない、複雑な感情の波紋だった。
「…気づけなかった、だと…?」部長の声は、掠れていた。「いや、違うな、しおり。気づかなかったんじゃねえ。俺たちは…俺も後藤も、気づいていながら、何もできなかったんだ。いや、何もしなかった、と言うべきかもしれねえ…」
彼は、コーヒーカップを握りしめる。その指先が、微かに震えているのを私は見逃さない。
部長の言葉に、私は県大会で経験した、あのクラスの女子生徒たちからの、理由の分からない「悪意」の視線を思い出していた。
「風花は、それでも気丈に振る舞ってた。俺たちの前では、いつものように笑ってた。だが、あいつの卓球は、少しずつ、確実に、その輝きを失っていったんだ。以前のような、自由で、楽しそうなプレイが、どんどん影を潜めていった…俺は、それに気づいていた。後藤も、きっと気づいてたはずだ。だが、俺たちは…どうすることもできなかった。下手に騒ぎ立てれば、風花がもっと傷つくんじゃないかと思って…」
彼の声には、当時の無力感と、そして今もなお消えない後悔が、痛々しいほどに滲み出ている。
「そして、ある日、実害が出た。風花の卓球のラケットが、部室で無くなっちまったんだ。結局、数日後に体育館裏のゴミ箱で見つかったんだが…ラバーはズタズタに切り裂かれて、ブレードも折られていた…」
(…物理的破壊行為。これは、もはや単なる誹謗中傷ではない。明確な悪意と、そして対象への強い憎悪を示す、計画的な犯行だ…)
私の思考が、急速に状況の深刻さを再評価する。
「風花は、それを見ても、何も言わなかった。ただ、静かに、新しいラケットを買った。だが、その時からだ。あいつが、卓球台の前で、笑わなくなったのは…」
部長の拳が、テーブルの下で固く握りしめられているのが分かった。
「そして、あの県大会の決勝の後だ。風花は、圧倒的な強さで優勝した。だが、その直後から、あいつへの誹謗中傷は、さらに酷くなった。『優勝は金で買った』『相手選手を脅迫した』…そんな、馬鹿げた噂が、学校中に広まった。そして、あいつは…学校に来なくなった。卓球部にも、顔を出さなくなった。俺も後藤も、何度も家に行った。だが、あいつは、誰にも会おうとしなかった…」
彼の言葉は、途切れ途切れになり、そして深い沈黙が、カフェの空間を支配した。
「…俺たちは、ただ、無力だった。あいつの苦しみに気づいていながら、見て見ぬふりをするしかできなかった。それが、俺の…俺たちの、罪だ。」
部長は、絞り出すような声でそう言った。その顔は、深い後悔と自責の念で歪んでいる。
(…彼らは、彼らなりに苦しみ、そして後悔している。だが、それは結果論だ。問題は、なぜそのような状況を放置し、そして今、私にそれを語ることで、何を期待しているのか…)
「…それで、部長。今日の市民体育館への誘いは、その『罪滅ぼし』の一環、ということでしょうか。風花さんに、私や後藤選手と卓球をさせることで、彼女の心が癒えるとでも?」
私の声は、どこまでも冷たく、そして分析的だったかもしれない。だが、それは、彼の感情的な言葉に流されず、本質を見極めようとする私の思考の表れだった。
部長は、私のその言葉に、力なく首を横に振った。
「いや…そんな大それたことを考えてたわけじゃねえよ。ただ…ただな、しおり。お前を見てると、時々、昔の風花を思い出すんだ。お前のあの、誰にも真似できねえ『異端』な卓球。そして、何にも臆さねえ、あの強靭な精神力。風花も、お前みてえに強かったら…あんなことには、ならなかったのかもしれねえって…そう、思っちまうんだよ。」
彼の瞳が、真っ直ぐに私を見据える。
「だから、今日の練習に風花を誘ったのは…お前の卓球を、あいつに見せてやりたかったのかもしれねえ。お前みたいな戦い方があるんだって、お前みたいな奴がいるんだってことを、あいつに知ってほしかった。それが、あいつにとって、何かほんの少しでも、前に進むきっかけになるかもしれねえって…そう、願っちまったんだよ。俺の、勝手な感傷かもしれねえがな。」
(…私の「異端」が、滝沢風花という存在にとって、何らかの「変数」となり得るという期待。そして、それは、部長自身の過去への後悔と、未来への僅かな希望が複雑に絡み合った結果の行動…か)
私は、彼のその、あまりにも人間的で、そして不器用な想いを、冷静に分析する。そして、その分析結果は、私のこれまでの行動原理とは異なる、ある種の「共感」に近い感情を、私の心に芽生えさせていた。
「…部長。あなたのその行動は、非合理的で、感情的な要素が多分に含まれています。ですが…」
私は、そこで一度言葉を切り、そして、ほんの少しだけ、声のトーンを変えて続けた。
「…ですが、その『感傷』が、風花さんにとって、そして私たちにとって、どのような『結果』をもたらすのか。それは、非常に興味深い『実験』と言えるかもしれませんね。」
私のその言葉に、部長の顔に、ほんのわずかだが、驚きと、そして安堵の色が浮かんだのを、私は見逃さなかった。