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異端の白球使い  作者: R.D
休息
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過去の苦味

 市民体育館での「実験」と称する、後藤選手との濃密な打ち合い、そして風花さんのあの僅かな、しかし確かな「一歩」を見届けた後、私たちは、それぞれの想いを胸に解散となった。後藤選手は、風花さんの手を引くようにして、夕暮れの街へと消えていく。その背中には、安堵と、そしてまだ拭いきれない影が混在しているように見えた。

「…しおり。この後、時間あるか?」

 不意に、隣を歩いていた部長が、いつもより少しだけ改まった口調で私に尋ねてきた。

「…特に予定はありませんが。何か、私に分析を要求するデータでも?」

「いや、そういうんじゃねえんだけどよ…ちょっと、付き合ってほしいところがあるんだ。お前も、たまには卓球以外のものも見ておいた方がいいだろ。」

 彼のその、どこか歯切れの悪い言い方と、僅かに泳ぐ視線。私の分析モデルは、彼が何か別の目的を隠している可能性が高いと示唆していた。だが、今日の彼の、風花さんや後藤選手に対する不器用なまでの優しさを見ていた私は、その誘いを断るという選択肢を、最初から除外していたのかもしれない。

「…承知しました、部長。あなたのその『合理的とは言えない提案』に、今回は乗ってみましょう。」

 部長に連れられて入ったのは、駅前の喧騒から少し離れた路地裏にある、レンガ造りの小さなカフェだった。店内は、ジャズの低い音色が流れ、アンティーク調の家具が配置された、落ち着いた雰囲気。私にとっては、これもまた未知の空間だ。

「…部長にしては、なかなかセンスの良い店舗選定ですね。あなたのこれまでの行動パターンからは予測困難な選択です。何か、特別なアルゴリズムでも作用したのでしょうか。」

 私が平坦な声でそう言うと、部長は「うるせえな!俺だって、たまにはこういう店くらい知ってるんだよ!」と、顔を僅かに赤らめながら反論する。その反応は、私にとって非常に興味深い観察対象だった。

 私たちは、窓際の小さなテーブル席に着いた。私がブレンドコーヒーを注文すると、部長は少し意外そうな顔をしたが、自分はブラックコーヒーを頼んでいた。

 運ばれてきたコーヒーに、私は添えられていた角砂糖を、一つ、二つ、そして三つと、無表情のまま投入する。その様子を見ていた部長が、さらに眉をひそめた。

「おい、しおり…お前、そんなに砂糖入れて、味が分かるのかよ…」

「…問題ありません。糖分は、脳のエネルギー効率を最適化するための重要な要素です。そして、私の味覚センサーは、この程度の糖分濃度でも、コーヒー豆本来の風味と焙煎度合いを正確に分析可能です。」

(…それに、甘いものは、嫌いではない。むしろ…)

 そんな思考を、私は口には出さない。それは、まだ私の「静寂な世界」の奥深くに秘めておくべき、パーソナルなデータだ。

 コーヒーの香りが、私たちの間の僅かな緊張を和らげるかのように漂う。しばらくの沈黙の後、部長が、カップを見つめたまま、ぽつり、と話し始めた。その声は、いつものような大声ではなく、どこか遠くを見つめるような、静かで、そして重い響きを持っていた。

「…風花のこと、そして後藤のことだがな…」

 やはり、今日の彼の行動の目的は、そこにあったのだ。私の分析は、概ね正しかった。

「あいつらとは、ガキの頃からの幼馴染なんだ。俺と、後藤と、そして風花。いつも三人で、馬鹿みてえに卓球ばっかりやってた。」

 彼の瞳には、懐かしむような、そしてどこか痛みを堪えるような色が浮かんでいる。

「風花は…本当に、太陽みたいな奴だった。誰よりも卓球が好きで、誰よりも強くて…そして、誰よりも優しかった。俺が『やるぞ!』って無茶なこと言い出しても、あいつはいつも『私も!』って笑ってついてきてくれた。後藤は、そんな俺たちを、呆れながらも、いつも一番近くで見守ってくれてた。あいつがブレーキ役だったから、俺たちも無茶できたのかもしれねえな…」

 彼の言葉の端々から、当時の彼らの、温かく、そしてかけがえのない関係性が伝わってくる。

(…太陽。仲間。そして、それを支える存在。私のデータベースには存在しない、しかし、人間という複雑なシステムを構成する上で、極めて重要なパラメータなのかもしれない…)

「だが…」部長の声が、僅かに低くなる。「中学一年の、あの県大会が終わった後だ。風花が…一部の奴らからの、くだらねえ誹謗中傷で…学校に来れなくなった。俺は…何もできなかった。あいつが一番苦しい時に、守ってやれなかったんだ…」

 彼の拳が、テーブルの下で固く握りしめられているのが分かった。その声には、深い後悔と、そして自分自身への怒りが滲んでいる。

「後藤も…あいつも、何もできなかった。そして、風花を残して、常勝学園に転校しちまった。あいつなりに、何か思うところがあったんだろうが…俺には、それが許せなかった。ずっと、そう思ってた…」

(…滝沢風花。彼女の「王道のドライブ」は、いじめという外部からの悪意によって、その輝きを失った。そして、その結果、三人の関係性もまた、修復不可能なレベルで破壊された、ということか…)

 私の脳は、彼の言葉から得られる断片的な情報を元に、過去の出来事の全体像を再構築しようと試みる。だが、そこには、あまりにも多くの「欠損データ」と、そして何よりも、論理だけでは説明できない、人間の複雑な感情が絡み合っていた。

「…部長」私は、静かに口を開いた。「あなたが、なぜ今日、私をここに連れてきたのか。そして、なぜ、後藤選手と風花さんを市民体育館に誘ったのか。その目的と、あなたが期待する結果について、より詳細なデータ開示を要求します。」

 私のその、あまりにも直接的で、そして感情を排した問いかけに、部長は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳の奥には、深い悲しみと、そしてほんの僅かな…希望のような光が揺らめいていた。

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