再起への一歩(6)
卓球台を挟んで彼女と向き合う。後藤選手が、心配そうな、しかしどこか期待するような眼差しで、彼女にボールを投げてよこした
私は、スーパーアンチのラバー面を彼女に向け、構える。
「風花さん。私が、あなたのドライブを受けます。そして、それを私のやり方で返しましょう。あなたは、ただ、ボールを追いかけてみてください。」
私の声は、どこまでも静かだった。
彼女が打ち返してきたボールは、やはり力なく、コースも甘い。私は、それをデッドストップでネット際に落とす。彼女は、返せない。俯き、肩を落とす。
(…やはり、今の彼女には、まだ…)
だが、後藤選手と部長の励ましの声が飛ぶ。風花さんは、顔を上げない。もう一度。また、返せない。諦めにも似た感情が、彼女の全身を覆おうとした、その時だった。
何度目かの挑戦。彼女の身体が、まるで何かに導かれるように動いた。かつての「王道ドライブマン」の記憶の断片が、彼女の身体を突き動かしたのかもしれない。ラケットが、ボールを捉えた。山なりで、コースも甘い。だが、ボールは、確かにネットを越え、私のコートに、ぽとりと落ちた。
(…返せた…?今の、彼女が…?)
風花さん自身も、信じられないといった表情で、自分のラケットと、私のコートに落ちたボールを交互に見つめている。そして、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、彼女の頬が緩み、瞳の奥に、長い間忘れていた微かな光が宿ったのを、私は確かに観測した。
その後、風花さんは、無理をすることなく、後藤選手に促されるまま、ラケットを丁寧にケースにしまった。彼女がラケットを握っていたのは、ほんの数十分だったかもしれない。だが、その時間は、彼女にとって、そして私たちにとっても、非常に大きな意味を持つものとなったはずだ。
「静寂さん、そして猛も…今日は、本当にありがとう。」
帰り際、後藤選手が、深々と頭を下げて私たちに言った。その表情には、県大会の時のような鋭さはなく、どこか吹っ切れたような、そして感謝の念が滲み出ている。
「風花が、あんな風にラケットを握るのを見るのは…本当に、久しぶりだったんだ。静寂さんの卓球は、確かに常軌を逸しているかもしれないが、何か、人の心を動かす力があるのかもしれないな。」
彼の言葉は、私の「異端」に対する、新たな評価だった。
風花さんもまた、私に向き直り、小さな声で、しかしはっきりとした口調で言った。
「…静寂さん。今日は…ありがとうございました。あなたの卓球…少しだけ、ですが…興味、湧きました。」
そして、彼女は、ほんの僅かに、本当に微かにだが、私に向けて微笑んだような気がした。それは、あまりにも儚く、そしてすぐに消えてしまいそうな微笑みだったが、私の心の奥底に、確かな温もりを残した。
後藤選手に付き添われ、少しだけしっかりとした足取りで体育館を後にしていく風花さんの後ろ姿を、私と部長は、しばらくの間、言葉もなく見送っていた。
夕暮れの市民体育館は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、ボールの音もまばらになっていた。床には、西日が長く伸び、私たちの影を映し出している。
「…なあ、しおり。」
不意に、部長が口を開いた。その声は、いつものような大声ではなく、どこか内省的な、静かな響きを持っていた。
「今日の、これ…本当に、これで良かったのかねえ…?」
彼の視線は、風花さんたちが消えていった体育館の出口に向けられている。その言葉には、風花さんの僅かな変化への喜びと、しかしそれ以上に、彼女の深い心の傷を再び開いてしまったのではないかという、彼なりの気遣いと不安が滲んでいた。
私は、彼のその言葉の意図を分析する。
(今日の「実験」が、滝沢風花さんの精神状態に与えた影響の評価、か。短期的には、彼女の卓球への興味を再燃させ、僅かながらも能動的な行動を引き出すことに成功した。だが、中長期的には、この刺激が彼女のトラウマを再活性化させるリスクも否定できない。そして、私のこの「異端」な卓球が、彼女にとって本当に「光」となり得るのか、あるいは新たな「混乱」をもたらすだけなのか…それは、まだ未知数だ…)
「…部長。」私は、彼に向き直り、いつも通りの平坦な声で、しかし慎重に言葉を選びながら言いました。「今日の私たちの行動が、風花さんにとって『正しかった』かどうかを判断するのは、時期尚早です。彼女の心の回復プロセスは、非常に複雑で、多くの不確定要素を含んでいますから。」
私はそこで一度言葉を切り、そして続けます。
「ですが」私の声に、ほんの少しだけ、これまでの私にはなかった種類の「確信」のようなものが込められていたかもしれない。「彼女が、今日、あの絶望の淵から、自らの意志でラケットを握り、そして、あの最後の一球を返したという事実は、否定できません。それは、彼女にとって、そして私たちにとっても、極めて重要な『データ』です。そして、その『データ』が示す未来は、決して暗いものではないと、私は分析します。」
私のその言葉に、部長は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、まだ不安の色が残っているが、同時に、私の言葉の中に何かを見出そうとするかのような、真剣な光が宿っていた。
「…お前の言う通りかもしれねえな、しおり。あいつのあの、最後の返球…確かに、何か、変わったような気がした。」
彼は、そう言うと、ふっと息を吐き、そして、少しだけ照れくさそうに、しかし心の底からの感謝を込めて、私に言った。
「…まあ、何はともあれ、だ。しおり、今日は、本当にありがとな。お前のおかげで、風花も、そして…俺も、ほんの少しだけだが、前に進めたような気がするぜ。」
その言葉は、不器用で、そしてあまりにも真っ直ぐだった。だが、その「熱」は、確かに私の心の壁をまた一つ溶かし、そして、私の「静寂な世界」に、新たな、そして温かい「仲間」という名の変数を、より深く刻み込んだのだった。
市民体育館の窓から差し込む夕日は、床に伸びる私たちの影を、さらに濃く、そしてどこか優しく染め上げていた。