風花雪月
後藤くんと、あの静寂しおりさんという一年生の「実験」と称する打ち合いが終わった後も、私はしばらくその場から動けなかった。後藤くんが、あんなにも真剣な、そしてどこか楽しそうな表情で卓球をしている姿を見るのは、本当に久しぶりだったから。そして、静寂さんの卓球…あれは、私の知っている卓球とは全く違う、まるで異次元の戦術と技術の連続だった。ボールが、まるで生きているかのように、あるいは死んでいるかのように、予測不能な軌道を描いてコートを支配する。
(すごい…)
素直に、そう思った。と同時に、胸の奥がズキリと痛んだ。かつて、私もあの場所にいた。猛くんや後藤くんと、ただ純粋に、勝利を目指して、そして何よりも一緒にいることが楽しくて、白いボールを追いかけていた。あの頃の私は、「王道のドライブマン」なんて呼ばれていたけれど、そんなことよりも、猛くんが「風花、ナイスボール!」って叫んでくれること、後藤くんが「今のコースは良かったな」って静かに頷いてくれること、その全てが宝物だった。
(でも、もう、わたしには…)
いじめの記憶、精神病棟の白い壁、そして保健室の、あの息の詰まるような静寂。それらが、暗い影のように私の心を覆い、ラケットを握る勇気を奪っていく。卓球は、もう私にとって「楽しい」ものではなく、むしろ苦しい記憶を呼び覚ます、忌まわしいトリガーでしかなかったのかもしれない。
その時、不意に声がかかった。
「風花さん」
静かで、平坦な、しかしどこか私の心の奥底に直接語りかけるような声。静寂しおりさんだった。彼女が、いつの間にか私のすぐそばに立っていた。その大きな、感情の読めない瞳が、じっと私を見つめている。
「私の『異端』、少しだけ、その身で感じてみませんか?巷では、どうやら『予測不能の魔女』などと呼ばれているようですが…まあ、その評価の妥当性については、現時点では検証データが不足していますが。」
彼女の言葉は、相変わらず分析的で、どこか他人事のようだった。でも、その声の奥に、ほんのわずかな、私に対する「興味」のようなものが感じられたのは、私の気のせいだろうか。
私の傍らには、後藤くんが気を利かせて持ってきてくれたのだろう、使い込まれた私のラケットケースが置かれていた。
「…卓球は…もう、ずっと…」
か細い声が、私の喉から漏れた。ラケットを握るのが怖い。ボールを打つのが怖い。そして何よりも、また誰かに否定されるのが、怖い。
「ええ、存じています。」静寂さんは、私の言葉を遮るでもなく、静かに言った。「ですが、これは試合ではありません。ただの、データ収集と、そして…そうですね、ほんの少しの『リハビリテーション』のようなものだとお考えください。」
リハビリテーション…。その言葉が、不思議と私の心に引っかかった。
「あなたの『王道』のドライブが、かつてどのようにコートを支配していたのか、私にはデータがありません。ですが、今のあなたの中に眠る『何か』が、私のこの『異端』と接触することで、どのような化学反応を起こすのか…私は、それに興味があるのです。」
彼女の視線が、私のラケットケースへと注がれる。
(わたしの中に…眠る「何か」…?)
それは、もうとっくに消え去ってしまったと思っていた、かつての情熱の残り火だろうか。それとも、この長い暗闇の中で、ほんの少しだけ芽生え始めた、新たな「光」への渇望なのだろうか。
「友達のため」の卓球。猛くんが「俺はやるぜ」と言った時、「私も!」と、ただ純粋な気持ちで、彼らと同じ目標を追いかけることが、何よりも楽しかった、あの頃の私。今の私に、そんな資格があるのだろうか。
でも、目の前の静寂さんの瞳は、私を分析しているようでいて、しかし決して私を否定してはいないように感じられた。彼女の言う「異端」…それは、私が知る卓球とは全く違うけれど、そこには、彼女だけの確固たる「何か」がある。
もし、ほんの少しだけなら…この人と、ボールを打ち合ってみたいかもしれない。
「…少しだけ…本当に、少しだけなら…」
私は、そう言って、震える手で、ゆっくりとラケットケースを開けた。中から現れたのは、使い込まれてはいるものの、丁寧に手入れされたラケット。私の、かつての「戦友」。
ラケットを握りしめる。その感触は、懐かしく、そして少しだけ、痛みを伴うものだった。
卓球台を挟んで、静寂さんと向き合う。まずは、簡単なフォアハンドのラリーから。
最初は、ボールがラケットに当たる感覚すら、どこか遠いものに感じられた。打球は力なく、コントロールも定まらない。
(やっぱり…もう、わたしには…)
諦めにも似た感情が胸をよぎる。
だが、静寂さんは、何も言わずに、ただ淡々と、私の打ちやすいコースへとボールを返してくれる。その、機械のように正確で、しかしどこか温かみのあるボールが、私の身体の奥底に眠っていた何かを、少しずつ呼び覚ましていく。
ラケットの角度、体重移動、そしてボールを捉えるタイミング。それらが、ぎこちないながらも、徐々に、かつての感覚を取り戻していく。
(…あ…少し、打てるようになってきた…)
「風花さん、次はフットワークを少し入れてみましょうか。私が左右にボールを散らしますので、無理のない範囲で追いかけてみてください。」
静寂さんの声が、再び私の意識を現実へと引き戻す。私は、小さく頷いた。
彼女が放つ、左右への緩やかなドライブ。私は、最初は戸惑いながらも、一歩、また一歩と、そのボールを追いかける。足がもつれそうになる。息が上がる。でも、不思議と、嫌ではなかった。
ボールを打つたびに、額に汗が滲み、呼吸も少しずつ速くなっていく。だが、私の心には、先ほどまでの虚無感ではなく、ボールを追いかけることへの、純粋な集中と、そして…ほんの僅かな「楽しさ」のようなものが、確かに芽生え始めていた。
卓球台を挟んで、静寂さんと向き合う。後藤くんが、心配そうな、しかしどこか期待するような眼差しで、私にボールを投げてくれた。
静寂さんが、先ほど後藤くんに見せたのと同じように、スーパーアンチのラバー面を私に向け、構える。
「風花さん。私が、あなたのドライブを受けます。そして、それを私のやり方で返しましょう。あなたは、ただ、ボールを追いかけてみてください。」
彼女の声は、どこまでも静かだった。
私は、大きく息を吸い込み、そして、震える足で一歩踏み出し、ボールを打った。それは、かつての「王道ドライブマン」の面影などどこにもない、力なく、そしてコースも甘い、ただの山なりのボール。
静寂さんは、そのボールに対し、ラケット面をほぼ垂直に立て、そしてインパクトの瞬間に、ほんのわずかにラケットを「引く」ような、独特のタッチでボールに触れた。
カツン、という乾いた音。
ボールは、私のドライブの僅かなエネルギーすらも完全に吸収され、まるで時間が止まったかのように、ネット際に、ぽとりと、ほとんど回転のないナックルボールとなって落ちた。
(…返せない…!)
私は、必死に手を伸ばす。だが、ボールは無情にもネット際で止まり、私のラケットが空を切る。
俯き、肩を落とす。やっぱり、今のわたしには、無理なんだ…。
「…風花さん。もう一度、お願いします。」
静寂さんの、感情の読めない声が聞こえる。私は、顔を上げられない。
(もう、やめたい…。こんな惨めな姿を、猛くんや後藤くんに見られたくない…)
だが、その時、優くんの声がした。
「風花…大丈夫だ。お前のペースでいい。もう一球だけ、やってみろ。」
その声は、昔、私が失敗して落ち込んでいる時に、いつも彼がかけてくれた、不器用だけど優しい声と同じだった。
そして、猛くんの、どこか楽しそうな、しかし力強い声も。
「そうだぞ、風花!俺たちが見ててやる!思いっきりやってみろ!」
私は、ゆっくりと顔を上げた。静寂さんの瞳は、相変わらず静かだが、その奥に、ほんのわずかな「待っている」という意志が見えた気がした。
(…もう一球だけ…)
私は、再びボールを打つ。先ほどよりは、ほんの少しだけ、力が乗ったかもしれない。
静寂さんが、再びデッドストップで返す。やはり、返せない。
もう一度。
また、返せない。
(…ダメだ…やっぱり…)
諦めにも似た感情が、再び私の心を支配しようとした、その時だった。
何度目かの挑戦。もう、何も考えられない。ただ、目の前の、あの「死んだ」ボールを、どうにかして相手コートに返したい、その一心だけだった。
身体が、勝手に動いた。かつて、何万回、何十万回と繰り返した、あのドライブの体勢。そして、ラケットが、ボールを捉えた。
それは、決して力強い打球ではなかった。山なりで、コースも甘いかもしれない。
だが、ボールは、確かにネットを越え、そして、静寂さんのコートに、ぽとりと落ちた。
(…返せた…?今の、わたしが…?)
信じられない、という思いと、ラケットを通して伝わってくる、ボールの確かな感触。
私は、呆然と、相手コートに落ちたボールを見つめていた。
そして、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、私の頬が緩み、瞳の奥に、長い間忘れていた、微かな光が宿ったのを、私自身はまだ気づいていなかった。