再起への一歩(5)
風花さんとの、ほんの数分のラリーと、軽いフットワーク練習。彼女の動きは、まだ硬く、ボールへの反応も鈍い。かつて「王道のドライブマン」として鳴らしたという面影は、残念ながら今の彼女からはほとんど感じ取ることはできなかった。額にうっすらと汗を浮かべ、浅く速い呼吸を繰り返す彼女の姿は、痛々しいほどに消耗しているように見えた。
(…やはり、ブランクと、そして何よりも心の傷が、彼女の身体を深く蝕んでいる。今の彼女に、高度な技術や戦術を要求するのは酷だろう。だが…)
私は、ネットの向こう側で、か細い肩を上下させながらも、必死に私を見つめ返してくる風花さんの瞳の奥に、ほんのわずかな、しかし消えない「何か」を感じ取っていた。それは、恐怖か、好奇心か、あるいは…かつて自分が立っていた場所への、微かな憧憬なのかもしれない。
「風花さん」私は、いつも通りの平坦な声で、しかしどこか彼女の心の奥底に直接語りかけるような響きを込めて言いました。「あなたの『王道』の片鱗、確かに感じ取れました。ですが、卓球には、あなたが知るのとは異なる『道』も存在します。私の『異端』…その一端を、少しだけお見せします。」
私のその言葉に、風花さんの大きな瞳が、ほんのわずかに見開かれた。その隣で見守っていた後藤選手も、興味深そうに私と風花さんを交互に見ている。部長は、腕を組み、何かを期待するような、あるいは心配するような複雑な表情を浮かべていた。
私は、ラケットをスーパーアンチの面に持ち替える。そして、後藤選手に合図を送り、彼に強烈なトップスピンのボールを、私のフォアサイドへと打ち込んでもらう。
(後藤選手のドライブ…回転数、スピード共に申し分ない。このボールのエネルギーを、私のアンチラバーがどう処理し、そしてどう変換するか…風花さん、あなたのその目に、しっかりと焼き付けてください…)
後藤選手から放たれたボールは、唸りを上げて私のコートへと迫ってくる。私は、そのボールに対し、ラケット面をほぼ垂直に立て、そしてインパクトの瞬間に、ほんのわずかにラケットを「引く」ような、独特のタッチでボールに触れた。
カツン、という乾いた、しかしどこか不気味な音が体育館に響く。
ボールは、後藤選手の強烈なトップスピンのエネルギーを完全に吸収され、まるで時間が止まったかのように、ネット際に、ぽとりと、ほとんど回転のないナックルボールとなって落ちた。それは、私の得意とする「デッドストップ」の一つ。
後藤選手は、そのあまりにも「死んだ」ボールに、一瞬反応が遅れたが、さすがは県大会上位選手、咄嗟に前に踏み込み、そのボールを拾い上げようとする。しかし、回転のないボールを持ち上げるのは至難の業。彼の返球は、山なりに、そして甘く浮き上がった。
私は、そのチャンスボールに対し、今度はラケットを裏ソフトの面に瞬時に持ち替え、コンパクトなスイングから、後藤選手のいないバックサイドへと、鋭いスマッシュを叩き込んだ!
一連の、あまりにも異質な攻防。風花さんは、その場に立ち尽くし、まるで信じられないものを見たかのように、大きく目を見開いている。彼女の唇が、何かを言おうとして、しかし言葉にならずに微かに震えているのが、私には分かった。
(…これが、私の「異端」の一つの形。相手の力を利用し、無効化し、そして予測不能な変化で相手を翻弄する。あなたは、これを見て、何を感じますか、風花さん…?)
私は、風花さんのその反応を、冷静に、そしてどこか期待を込めて観察する。彼女の心の奥底にある、凍てついた何かが、この私の「異端」によって、ほんの少しでも、揺り動かされることを願いながら。