再起への一歩(4)
後藤選手との「実験」と称する、常軌を逸したラリーの応酬は、彼の体力が限界に達したことで、一旦の終息を見た。彼の額からは滝のような汗が流れ、肩で大きく息をしている。だが、その表情には、疲労よりもむしろ、未知の卓球に触れたことへの興奮と、そして私に対する新たな警戒心、あるいは敬意のようなものが浮かんでいた。
「…静寂さん。君の卓球は…やはり、底が知れないな。今日は、いいデータが取れた。」
彼は、そう言って不敵に笑うと、傍らで心配そうに、しかしどこか興味深げに私たちを見守っていた部長の元へと歩いていった。
体育館の隅には、相変わらず俯き加減で、しかし先ほどよりもほんの少しだけ、その表情に生気が戻っているように見える風花さんがいた。彼女の視線は、先ほどの私と後藤選手のラリーの残像を追っているかのようだ。
私は、彼女のその微かな変化を見逃さない。
(滝沢風花…彼女の現在の精神状態は、依然として不安定なパラメータを示している。だが、先ほどの卓球という「刺激」に対し、彼女の脳は、僅かながらもポジティブな反応を示したと分析できる。ならば…)
私は、静かに彼女の元へと歩み寄った。彼女は、私の気配に気づき、少しだけ驚いたように顔を上げる。その大きな瞳が、不安げに私を見つめている。
「風花さん」私は、いつも通りの平坦な、しかしどこか彼女の心の奥底に直接語りかけるような声で言いました。「私の『異端』、少しだけ、その身で感じてみませんか?巷では、どうやら『予測不能の魔女』などと呼ばれているようですが…まあ、その評価の妥当性については、現時点では検証データが不足していますが。」
私のその、どこか自嘲気味で、そして挑戦的とも取れる言葉に、風花さんの瞳が、ほんのわずかに見開かれた。彼女の唇が、何かを言おうとして、しかし言葉にならずに微かに震えている。
彼女の傍らには、いつの間にか、使い込まれたラケットケースが置かれていた。後藤選手が、気を利かせて持ってきていたのだろう。あるいは、彼女自身が、無意識のうちに、この場所へ持ってくることを望んでいたのかもしれない。
「…卓球は…もう、ずっと…」
風花さんが、か細い声で呟く。その声には、深い絶望と、そしてほんの僅かな、しかし否定しきれない未練のようなものが滲んでいた。
「ええ、存じています。ですが、これは試合ではありません。ただの、データ収集と、そして…そうですね、ほんの少しの『リハビリテーション』のようなものだとお考えください。」
私は、彼女のラケットケースに視線を送り、そして再び彼女の顔を見つめた。
「あなたの『王道』のドライブが、かつてどのようにコートを支配していたのか、私にはデータがありません。ですが、今のあなたの中に眠る『何か』が、私のこの『異端』と接触することで、どのような化学反応を起こすのか…私は、それに興味があるのです。」
私の言葉は、挑発でも、同情でもない。ただ、純粋な分析者としての、そして同じ卓球という競技に身を置く者としての、率直な興味。
風花さんは、しばらくの間、俯いたまま何かを考えていた。やがて、彼女は、震える手で、ゆっくりとラケットケースを開けた。中から現れたのは、使い込まれてはいるものの、丁寧に手入れされたラケット。彼女の、卓球への断ち切れない想いが、そこに凝縮されているかのようだった。
「…少しだけ…本当に、少しだけなら…」
彼女は、そう言って、おそるおそるラケットを握りしめた。その姿は、まるで初めてラケットを握る子供のように、どこか頼りなく、そして脆い。
私たちは、卓球台を挟んで向き合った。まずは、簡単なフォアハンドのラリーから。
最初は、風花さんの打球は力なく、コントロールも定まらない。だが、数球打ち合ううちに、彼女の身体の奥底に眠っていた何かが、少しずつ呼び覚まされていくのが分かった。ラケットの角度、体重移動、そしてボールを捉えるタイミング。それらが、ぎこちないながらも、徐々に、かつての「王道のドライブマン」の片鱗を取り戻していく。
(…やはり、彼女の中には、まだ「何か」が残っている。深い絶望の灰の下で、消えずに燻り続けていた、卓球への「想い」が…)
私は、彼女のその変化を、冷静に、しかしどこか期待を込めて観察する。
「風花さん、次はフットワークを少し入れてみましょうか。私が左右にボールを散らしますので、無理のない範囲で追いかけてみてください。」
私のその提案に、彼女は小さく頷く。
私が放つ、左右への緩やかなドライブ。風花さんは、最初は戸惑いながらも、徐々にその足取りを取り戻していく。一歩、また一歩と、その動きは滑らかさを増し、そして、彼女のラケットから放たれるボールには、ほんのわずかだが、かつての力強さと鋭さが戻り始めていた。
額に汗が滲み、呼吸も少しずつ速くなっていく。だが、彼女の表情には、先ほどまでの虚無感ではなく、ボールを追いかけることへの、純粋な集中と、そして…ほんの僅かな「楽しさ」のようなものが浮かんでいるように、私には見えた。
それは、まだ本当に小さな、そして脆い「始まりの一歩」に過ぎないのかもしれない。だが、この市民体育館の片隅で、私の「異端」と、彼女の「王道」が、そして私たちの「孤独」が、ほんの少しだけ交錯し、新たな物語の序章を奏で始めた瞬間だったのかもしれない。