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異端の白球使い  作者: R.D
休息
202/674

練習

 県大会の熱狂が遠い記憶となりつつある、夏休みも半ばを過ぎた頃。


 第五中学校の卓球部の体育館は、相変わらずの熱気に満ちていた。


 窓の外からは、ジリジリと肌を焼くような日差しと、それをさらに煽るかのような蝉の大合唱が容赦なく流れ込んでくる。


 部員たちの額には玉のような汗が光り、ボールを打つ乾いた音と、シューズが床を擦る鋭い音が、リズミカルに、しかしどこか切迫感を伴って響き渡っていた。ブロック大会は少しずつ、着実に迫っているのだ。


 私はその日、部長とのマンツーマンでの多球練習に臨んでいた。


 彼の繰り出すボールは、一球一球が重く、そしてコースも厳しい。


 県大会での優勝という結果は、確かに私に一つの達成感をもたらしたが、同時に、青木桜選手のあの「フロー状態」という絶対的な力の前に、私の「異端」がいかに脆く、そして体力的な限界がいかに低いかを、残酷なまでに突きつけていた。


 …部長のこの球出し…明らかに私のスタミナと、そして左右への揺さぶりへの対応力を試している。私の弱点を的確に分析し、それを克服させるための、合理的で効率的な練習メニューだ…。


「おい、しおり!足が止まってるぞ!今のボール、完全に振り遅れてるじゃねえか!県大会で優勝して、少しは天狗になってんのか、あぁ!?」


 部長の檄が体育館に響き渡る。


 その声には、いつものような単なる叱咤だけでなく、どこか私を試すような、そしてほんの少しだけ以前とは異なる種類の期待のようなものが混じっているのを、私は感じ取っていた。


「…はい部長。ご指摘感謝します。次のボール、修正します」


 私は、いつも通りの平坦な声で返し、次のボールに集中する。だが心の奥底では、彼のその熱が、私の静寂な世界に、確実に変化をもたらし始めているのを感じていた。


 練習は、その後も数時間に及んだ。


 私は、スーパーアンチラバーと裏ソフトを巧みに使い分け、県大会の最終セットで見せた予測不能のサーブの精度を高め、そして新たな武器として意識し始めたアンチラバーでのナックルドライブの練習にも取り組んだ。


「ナックルのドライブ…!っく、…重い!?持ち上がらねえ!…おらあぁ!」


 時にはトリッキーで時に常軌を逸したプレイに、時には顔をしかめる。


「ちくしょう、またそんな訳の分からんボールを!」


 悪態をつきながらも、その全てに真剣に食らいついてくる。


 彼のその真っ直ぐな闘志と、揺るがない卓球は、私にとって、最高の分析対象であり、そして最も信頼できる壁でもあった。


「おい、しおり!今のアンチのナックルドライブ、なかなかエグいじゃねえか!だが、まだ安定感が足りねえな!もっと体幹を意識しろ!ボールに体重を乗せるんだ!」


「…はいわ体幹からのエネルギー伝達効率の最適化…パラメータを再設定します」


 全ての練習メニューが終わり、体育館の隅でストレッチをしながらクールダウンしていると、部長がタオルで顔の汗を拭いながら私の隣に腰を下ろした。


 床に落ちる汗の滴が、この夏の猛練習の激しさを物語っている。


「しおり、お前、最近少し変わったな」


 不意に彼がそんなことを口にした。


 その声にはいつものような大声ではなく、どこか落ち着いた、観察するような響きがあった。


「…具体的に、どのパラメータの変化を指しているのですか、部長」


 私は、ストレッチの手を止めずに、いつも通り平静を装いながら尋ねる。


 私の「静寂な世界」は、そう簡単には揺らがない。少なくとも、表面上は。


「パラメータ、ねえ…お前は本当に、そういう小難しい言い方しかできねえのかよ」


 部長は呆れたように、しかしどこか楽しげに苦笑いしながらも、続けた。


「いや、なんて言うか…前よりも、人間味が出てきたっつーか…いや、変な意味じゃねえぞ!前が人間じゃなかったってわけでもねえし…その、なんだ…こう、卓球以外のことに、ほんの少しだけだが、興味を持つようになったように見える、ってことだよ」


 …人間味…卓球以外の興味…確かに、あかねさんと出かけたあの「女の子らしい遊び」とやらは、私の分析に新たなデータセットを提供した。


 …そして、幽基未来さんとの花火大会…あれもまた、予測不能な変数に満ちていた。それらが、いやそれ以前からの関わりが、私の行動パターンに、何らかの影響を与えているというのか…?


「…県大会の後、お前、ぶっ倒れただろ。正直、あの時は肝が冷えた。だがな、あの後のお前、少しだけだが、あかねとか、俺とか…周りの奴らを頼ることを覚えたような気がするんだよ。まあ、お前自身はそんなつもり、これっぽっちもねえのかもしれねえがな」


 部長のその言葉は、私の心の奥底にある、私自身もまだ明確には認識できていない変化の兆しを、的確に捉えているのかもしれない。


 …仲間…頼る…それは、私のこれまでの行動原理には存在しなかった変数だ。だが、確かに、あの県大会の決勝は、あかねさんの存在、そして部長のこの不器用な優しさ、それらは私の「静寂な世界」に、無視できない影響を与えている。それは、私の分析モデルにおける、新たな、そして非常に重要なパラメータとなりつつある…。


「なあ、しおり」


 部長が、少しだけ改まった口調で言った。


「今度の週末、時間あるか?」



「…予定は、現時点ではブロックされていませんが。それが、どのような目的の行動でしょうか。私の戦術分析に必要なデータ収集ですか?」


 私は、いつも通り、彼の言葉の裏にある合理的な目的を探ろうとする。


 部長は、ニヤリと笑い、どこか楽しそうな、しかし真剣な眼差しで私を見た。


「まあ、そんなとこだ。たまには気分転換も必要だろ。市民体育館で、ちょっと面白い奴らと打てるかもしれねえしな。お前のその『異端』な卓球が、どこまで通用するのか、あるいは新しい『何か』が見つかるのか…試してみるのも悪くねえだろ?」


「面白い奴ら…」


 その言葉に、私の分析ルーチンが、新たな変数への強い興味を感知する。


 …市民体育館…外部環境での実践練習は、新たなデータ収集の機会となる。そして、部長が『面白い奴ら』と称する存在…それは、私の予測モデルにない、未知の変数との遭遇を意味するのかもしれない。興味深い…非常に、興味深いデータだ…。


 私は、ほんの少しだけ逡巡した後、いつもより僅かに早いタイミングで、そしてほんの少しだけ、人間的な好奇心を滲ませて、こう答えていた。


「…承知しました、部長。その『面白い奴ら』とやらを、私の分析対象に加えさせていただきます。詳細な時間と場所のデータを要求します」


 私のその言葉に、部長は、満足そうに、そしてどこか嬉しそうに、大きく頷いたのだった。


「おう!任せとけ!」


 その声は、いつものように体育館に響き渡っていた。


 私の「異端の白球」は、新たな仲間という名の「熱」と、そして未知の「変数」との遭遇を求め、また一つ、新たなステージへと駒を進めようとしていた。

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