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異端の白球使い  作者: R.D
休息
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異端の原点

 幽基さんと別れ家路についた私は、夜空に咲いた大輪の花々の残像よりも、彼女の言葉と、あの手持ち花火の小さな光の明滅を、より鮮明に記憶していた。


 彼女の異質と私の異端、私たちは確かに何かで繋がっているのかもしれない、だがそれが何なのか、今の私にはまだ正確に言語化できない。


 自室のベッドに寝そべり、天井の模様を無意識に目で追いながら、私は癖のように卓球のラケットを手に取りくるくると回転させていた。


 裏ソフトの粘着質な感触と、スーパーアンチの滑らかで無機質な感触が、交互に人差し指を掠める。


 …なぜ、私はこのアンチラバーを使い続けるのだろうか…?


 未来さんに問われた言葉が、再び脳裏をよぎる。あの時私は「私自身に最もよく似ているから」と答えた。


 それは半分は真実であり、そして半分は、まだ言語化できない直感のようなものだった。


 …粒高ラバーの方が、戦術的な優位性は高い。回転の変化も、攻撃のバリエーションも、アンチより遥かに上だ。現に、プロの世界でもアンチラバーの使用者は極めて少数。合理的に考えれば、私がこのラバーに固執する理由はないはずだ…。


 それでも私は、このラバーを手放せない。まるで自分自身の半身であるかのように。


 その感覚の源流を辿るように、私の意識は過去の記憶の深淵へと沈んでいく。


 あれは、確か…小学三年生の夏だったか、秋だったか。


 あの出来事の後私はしばらくの間、母親の実家である祖父母の家に身を寄せていた。


 父の怒声も、物が割れる音も、アルコールの匂いもない、静かで、しかしどこかよそよそしい空気が流れる古い家。


 そこで、私は初めて、心の底から、静寂を渇望したのかもしれない。


 祖父が、どこからか古い卓球のラケットとボールを見つけてきて、相手をしてくれるようになった。


 卓球台は土間においてあった。


 彼は昔、少しだけ卓球をやっていたらしい。祖母はそんな私たちを、いつも縁側から黙って見守っていた。


 ラリーは続かない。技術もない。だが、あの薄暗い土間で、ただ無心にボールを打ち合う時間は、私にとって数少ない、現実から逃避できる瞬間だった。


 …あの時のラケットは…確か、普通のラバーが貼られた、ごく普通のシェークハンドだった…。


 しかし、そのささやかな安息も長くは続かなかった。


 ある日、父が祖父母の家に来て…そして、あのラケットは、彼の怒りと共に、いとも簡単にへし折られたのだ。


 乾いた軽い破壊音。


 それが、私の心を再び絶望の淵へと突き落とした。


 その後見かねた祖父が、私を町の小さな卓球用品店へと連れて行ってくれた、新しいラケットを買ってくれるのだという。


 店の奥から出てきた、人の良さそうな初老の店長は、初めて見る私に、様々なラケットやラバーの種類を、一つ一つ丁寧に説明してくれた。


「こっちはね、ボールがよく弾むし、回転もかけやすいラバーだよ。一番王道な物で、攻撃的な選手に人気だね」


「これは粒高ラバーといってね、相手の回転を利用して、予測しにくい変化球が出せるんだ。カットマンの選手なんかがよく使うね」


 彼の説明は、当時の私には難解な部分も多かった。だが、私はただ黙って、彼の言葉の一つ一つに耳を傾けていた。


 そして、彼が最後に手に取った一枚のラバー。


 それは、他のラバーとは明らかに異質な、どこかマットで、光を吸い込むような黒いラバーだった。


「で、これが…アンチスピンラバー。ちょっと特殊でね」


 店長は、少しだけ声を潜めるように言った。


「このラバーは、自分から回転をかけるのは難しいんだ。でもね、相手のどんな強烈な回転も、まるで何もなかったかのように打ち消してしまう。そして、ボールは回転を失って、ふらふらと、相手にとってはすごく取りにくい、嫌らしい球になって返っていく。使う人を選ぶ、まさに『異端』のラバーだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、私の心に、強い衝撃が走ったのを覚えている。


 …相手の回転を…打ち消す…?予測不能な、嫌らしい球…?


 私も、父のあの理不尽な怒りや、学校での悪意ある視線を全て打ち消してしまいたい。そして、誰にも私の心を読ませない、予測できない存在になりたい…。


 当時の私は、まだ感受性が豊かで、他者の感情の機微に敏感だった、…はずだ。


 だからこそ、傷つきやすく、そして誰よりも強く、自分を守るための盾を求めていたのかもしれない。


「…店長さん」


 私は、初めて自分から口を開いた。


「その…アンチラバーというのを、見せていただけますか」


 店長は、少し驚いたような顔をしたが、すぐににこやかに頷き、その黒いラバーを私に手渡してくれた。


 私は、そのラバーを、まるで自分の分身であるかのように、じっと見つめた。そして、確信したのだ。


 …これだ…これこそが、私のラバーだ…。


 ラケットの回転が止まり、私は、ゆっくりと目を開ける。


 窓の外は、もう完全に夜の闇に包まれていた。


 あの時、小学三年生の私がアンチラバーに感じた共感は、決して論理的なものではなかっただろう。


 それは、トラウマから逃避し、自分を守ろうとする、幼い心の自己防衛本能が生み出した、歪んだ直感だったのかもしれない。


 だが、その直感が、今の私の「異端の白球」の原点であることもまた、紛れもない事実なのだ。


 …このラバーと共に、私は戦い続ける。それが、私にとっての唯一の道なのだから…。


 私は、再びラケットを強く握りしめた。その無機質な感触が、不思議と私の心を落ち着かせてくれるのだった。

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