泥沼への招待状
第二セットが始まった。
第一セットを先取したとはいえ、部長の熱量と適応力は私の予測を上回っていた。
インターバル中、彼はタオルで顔の汗を拭いながらも、その瞳は少しも曇ることなく、むしろ次のセットへの闘志でギラギラと輝いている。
他の部員たちも、彼のその姿に影響されたのか、あるいは私の異質な卓球への興味が勝ったのか、体育館の片隅で行われている私たちの試合から目を離そうとしなかった。
あかねさんは、ノートに何かを熱心に書き込みながら、時折心配そうな表情で私と部長を交互に見ている。
…彼の精神的なタフネスは、予想以上のものがある。そして、私の変化球に対する慣れも早い。第二セットは、第一セットと同じ戦術だけでは押し切れない可能性が高い。
私のサーブから第二セットが始まった。私は、第一セットではあまり見せなかった、裏ソフトでのYGサーブ(逆横下回転)を彼のバック深くに送り込んだ。
ボールは鋭く曲がりながら沈み、彼のバックハンドドライブのタイミングをわずかに狂わせる。返球は少し甘く浮き、私はそれをすかさず裏ソフトでフォアハンド強打。
しかし、部長は驚異的な反応速度でそのボールに食らいつき、深い位置から強引なカウンタードライブを私のミドルへ叩き込んできた。
ドパァン!と、先ほどよりも重く、鋭い打球音が響く。ボールは私のラケットを弾き、あらぬ方向へ飛んでいく。
静寂 0 - 1 部長
「どうだ静寂!お前のサーブの回転なんぞ、この俺にはお見通しだ!」
部長は、先制点を取ったことでさらに勢いづいたようだ。彼の動きは、第一セットよりも明らかにキレを増している。
そして、私の変化球に対する迷いが消え、より積極的に、そしてよりパワフルに攻めてくるようになった。
彼のサーブ。強烈な下回転と見せかけた、ほとんど回転のないナックルサーブが私のフォア前に短く来た。
私はスーパーアンチを使いツッツきで返そうとしたが、回転がないためにボールが思ったよりも伸び、ネットに引っ掛けてしまう。
静寂 0 - 2 部長
…読まれている? いや、それ以上に、彼自身のプレーの精度が上がっている。私の変化を恐れず、自分の卓球を貫こうとしている。
その後も、部長の勢いは止まらない。私のブロックにも、彼は体勢を崩しながらも強引にボールをねじ込み、私の「シャドウドライブ」のコースにも、野生の勘とでも言うべき反応で追いついてくる。
彼の持ち前のパワーと、決して諦めない精神力が、私の緻密な戦術を少しずつ打ち破り始めていた。
静寂 3 - 7 部長
点差が開いていく。体育館の空気も、先ほどまでの私の異質さへの驚きから、部長の力強いプレーへの称賛へと変わりつつあるように感じられた。
あかねさんのペンを走らせる音も、どこか焦りを帯びているように聞こえる。
…このままでは、まずい。彼の勢いを止めなければ。通常の持ち替え戦術だけでは、彼の「慣れ」と「パワー」に押し切られる。
私は、タイムアウトを取ることはしない。それは、私のスタイルではない。この状況を打開するためには、彼が予測できない、新たな「何か」が必要だ。
これまで私が一人で、あの薄暗い部屋の卓球台で、マシンを相手に、あるいは頭の中で、密かに練り上げてきた、まだ実戦ではほとんど試していない、その禁忌の「引き出し」をあけた。
私のサーブ。スコアは12-13。まだ部長のリードだ。
私は、ここで一つ、試してみることにした。
裏ソフトで、部長のバック側へ緩い下回転サーブ。彼はそれをドライブで持ち上げてきた。
私は、そのドライブに対して、スーパーアンチでブロックする体勢に入りながら、インパクトの直前、ほんの一瞬だけ、全ての動きをピタリと止めた。まるで時間が凍り付いたかのように。
部長は、私がブロックしてくると予測し、次の強打の準備に入ろうとしていたが、私のその不自然な「静止」に、彼の体がわずかに反応し、動きが一瞬硬直したのが分かった。
その刹那、私はスーパーアンチでボールの側面を鋭く擦り、彼のフォアサイドネット際へ、極めて短い、横回転のかかったナックル性のボールを送り込んだ。
ボールは、予測不能な軌道で彼のコートに落ち、鋭く横に切れながらバウンドする。
「なっ…!?」
部長は、完全に虚を突かれた。慌ててボールを追いかけるが、間に合わない。
私は、打球直後に一瞬動きを完全に止め、相手の反応を確認し、フリーの方向へボールを送ったのだ、後の先をついた。
静寂 14 - 14 部長
…成功。だが、今の返球は、まだ安定性に欠ける。回転のコントロールも甘かった。確実に成功する持ち替え戦術とは異なり、これはまだ「ムラ」がある。
しかし、今のポイントで、部長の勢いがわずかに削がれたのを感じた。彼の瞳に、再び「何をしてくるか分からない」という警戒の色が浮かぶ。
試合は、その後も一進一退の攻防が続いた。私が新たな試み――例えば、極端な緩急をつけたラリー展開を見せようと、スーパーアンチで意図的に非常に遅い山なりのボールを送ると、部長は一瞬戸惑いながらも、それを力でねじ伏せようとしてくる。
その強引さが、時にミスに繋がることもあれば、逆に私の予測を超える強打となって返ってくることもあった。これらの新しい試みは、まだ完成度が低く、成功と失敗を繰り返す。
そして、スコアはついに、20-20のデュース。
ここから、壮絶な点の取り合いが始まった。私がサーブでポイントを取れば、彼もまた強烈なレシーブで取り返す。ラリーは長く続き、体育館の誰もが息をのんで私たちのプレーを見守っている。
静寂 20 - 21 部長
部長のマッチポイント。彼のサーブだ。体育館の空気が、極限まで張り詰める。彼の額からは滝のような汗が流れ、肩で大きく息をしている。しかし、その瞳の奥の闘志は少しも衰えていない。
…追い詰められている。彼の気迫、そしてこの状況。通常のプレーでは、彼の勢いを止めるのは難しいかもしれない。
私は、ここで、もう一つの、そして最もリスクの高い「新しい技」を試すことを決意した。
それは、理論上は可能だが、成功率が低く、実戦で使うにはあまりにも不安定な技。相手の得意なサーブや癖を短時間で模倣する。
部長がサーブの構えに入る。彼が最も得意とする、フォアハンドからの強烈な下回転サーブだ。
これまで何度も受けてきた。その軌道、回転、そして彼のフォームの微細な癖。私の脳内で、それらが高速で再生され、分析される。
…彼のサーブを、私が、今、ここで…
リスクは高い。失敗すれば、このセットを失う。しかし、この土壇場で、彼の得意なサーブを、彼自身に打ち返すことができれば…その精神的ダメージは計り知れない。
部長がサーブを放った。いつも通りの、鋭く、重い下回転サーブ。
私は、目を閉じそうなほどの集中力で、そのボールを見据える。そして、信じられないかもしれないが、彼と全く同じフォーム、同じタイミング、同じラケット角度で――裏ソフトの面を使い――彼と同じ下回転サーブを、彼のフォアサイドにレシーブとして打ち返した。
それは、まるで鏡写しのような光景だった。
「な……んだと……!?」
部長の顔が、驚愕に染まる。彼が最も得意とし、信頼しているサーブが、目の前で、私によって模倣され、そして、レシーブとして返ってきたのだ。
彼は、咄嗟に反応しようとしたが、その衝撃と、完璧にコントロールされた私の「コピーサーブ」の質の高さに、体がついていかない。ボールは、彼のラケットに触れることなく、コートの端をかすめていった。
静寂 21 - 21 部長
体育館が、一瞬の静寂の後、どよめきに包まれた。
「今のは…部長のサーブとそっくりだったぞ!」「あんなことできるのか!?」
あかねさんの驚いたような顔が見える。
部長は、呆然と立ち尽くしている。彼の顔からは、いつもの自信と熱血が消え、信じられないものを見たという、純粋な困惑と衝撃だけが浮かんでいた。
…成功した。だが、これは賭けだ。成功率が低すぎる割に相手が動揺しなければ簡単に返される、何度も使える技ではない。
今の模倣も、完璧ではなかったはずだ。それでも、この土壇場で、彼の度肝を抜くには十分だった。
私の心臓は、激しく高鳴っていた。それは、恐怖からではない。極限の集中と、成功したことによる、静かな興奮からだった。
この一点が、このセットの流れを、そして試合全体の流れを、大きく変えることになるかもしれない。私は、静かに次のサーブの構えに入った。部長の動揺は、まだ続いている。




