花火(3)
夜空を焦がした光の饗宴が終わり、最後の花火の残響が夏の夜気に溶けていくと、河川敷には先ほどまでの喧騒が嘘のような、深い静寂が訪れた。遠くで虫の音が聞こえ、川面を渡る風が、私たちの頬を優しく撫でていく。人々が三々五々帰り始める中、私と未来さんは、まだその場に残り、言葉少なに見えない何かを共有しているかのようだった。
りんご飴の甘ったるさがまだ口の中に残っている。私は、その感覚を分析しようと試みるが、隣に座る未来さんの、どこか儚げな横顔の方が、今の私にとってはより興味深い観測対象だった。
(彼女は、この花火大会という「現象」から、どのような「データ」を収集し、何を思考しているのだろうか…その「影」は、今、何を映している…?)
不意に、未来さんが、傍らに置いていた小さな紙袋から、数本の手持ち花火を取り出した。それは、線香花火や、ネズミ花火といった、子供の頃に誰もが一度は遊んだことのあるような、素朴な玩具。
「静寂さん」未来さんが、私に一本の線香花火を差し出しながら、静かに言った。「もしよろしければ、もう少しだけ、この夜の『余韻』にお付き合いいただけませんか。わたし、この小さな光の明滅も、また、趣があるように思うのです。」
私は、その線香花火を黙って受け取る。彼女がライターで火を点けると、パチパチと小さな音を立てて、オレンジ色の儚い火花が、暗闇の中に小さな円を描き始めた。
私たちは、しばらくの間、ただ黙って、その小さな光の塊を見つめていた。打ち上げ花火のような派手さはない。だが、その頼りない、しかし懸命に燃え続けようとする光は、不思議と人の心を惹きつける何かを持っていた。
やがて、未来さんが、ぽつり、と呟くように話し始めた。その声は、夜の静寂に溶け込むように、低く、そしてどこか切ない響きを帯びていた。
「…わたしが、なぜカットマンになったのか…静寂さんは、不思議に思われたことはありませんか?」
唐突な問いだった。だが、私は驚かなかった。彼女のその言葉は、この静かで、そしてどこか特別な夜の雰囲気に、ごく自然に溶け込んでいるように感じられたからだ。
「…カット主戦型は、現代卓球においては、確かに少数派と言えるでしょう。特に、女子選手においては、その傾向はより顕著です。あなたがそのスタイルを選択した背景には、何らかの合理的な理由、あるいは個人的な嗜好が存在すると推測はしていました。」
私は、いつも通りの分析的な口調で答える。
未来さんは、小さく頷き、そして、自分の手の中の線香花火の、消え入りそうな光を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「わたしは、昔から、あまり人と上手く関わることができなかったのです。特に、同年代の…女の子たちとは。わたしの少し変わった言動や、あるいは…恵まれた家庭環境が、彼女たちにとっては、どこか異質なものに映ったのかもしれません。」
その言葉には、彼女の「影」の一端が、はっきりと滲み出ている。
「卓球は…そんなわたしにとって、唯一、自分を表現できる場所でした。でも、わたしは、相手を一方的に打ち負かすような、短いラリーはあまり好きではなかったのです。もっと…そう、もっと長く、相手とボールを介して『対話』をしていたい、と。相手の力を感じ、それを受け止め、そして変化させて返す…そのラリーの応酬の中に、わたしは、言葉にならない『繋がり』のようなものを感じていたのかもしれません。」
彼女は、そこで一度言葉を切り、自嘲するような、しかしどこか寂しげな笑みを浮かべた。
「わたしのカットは、相手の強打を、ただひたすらに拾い続ける。それは、まるで…誰にも理解されない、わたし自身の心の叫びを、ただ壁に向かって打ち返しているような…そんな感覚に陥ることもありました。そして、そんな地味で、分かりにくい卓球を好んで練習相手になってくれる人も、なかなか見つからなくて…ええ、正直に申しますと、少し…いえ、かなり、孤独でしたね。ラリーが長く続けば続くほど、わたしは、その相手と繋がっていられるような気がして、それが唯一の救いだったのかもしれません。」
線香花火の最後の火花が、パチパチと音を立てて弾け、そして力なく闇の中に消えていった。
(孤独…そして、ラリーを長く楽しみたいという純粋な想い。それが、彼女の「異質」なカットスタイルの根源…彼女もまた、私とは異なる形で、卓球という行為そのものに、何か特別な意味を見出そうとしていたというのか…)
私は、彼女のその告白に、胸の奥が微かに痛むのを感じた。それは、県大会の決勝で感じた、あの敗北の痛みとは異なる、もっと人間的な、共感に近い感情だったのかもしれない。
「でも」未来さんが、顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、先ほどまでの儚げな光ではなく、静かだが、しかし確かな意志の力が宿っている。
「あなたの卓球を見て、そして、あなたとあかねさん、部長さんの関係を見て…わたし、少しだけ、変われるかもしれないと思ったのです。わたしのこの『異質』なカットも、ただ相手の力を受け止めるだけでなく、もっと積極的に、誰かと繋がり、何かを生み出すための力になるのかもしれない、と。」
彼女の言葉は、まるで、暗闇の中で見つけた一筋の光のように、私の心に強く響いた。
「だから、わたしは、これからもカットマンとして、このスタイルで戦い続けるつもりです。この小さなラケットと、この変化するボールを通して、相手と、そして自分自身と、どこまでも長く『対話』を続けたい。そして、その先に…いつか、本当の意味での『仲間』と、心ゆくまでラリーを楽しめる日が来ることを、信じているのです。」
未来さんは、そう言って、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、夜空に最後に残った花火の残光のように、美しく、そしてどこか切なく、私の目に焼き付いた。
私の「異端」と、彼女の「異質」。私たちは、それぞれ異なる道を歩み、異なる渇望を抱えてきたのかもしれない。だが、この花火の夜、私たちは、確かに、卓球という名の「対話」を通して、何か同じものを見つめていたのかもしれない。