花火(2)
手紙の返事という、私にとっては些細だが彼女にとっては少しばかりの不安要素だったらしい「バグ」が解消された(というより、新たな「仕様」として認識されたと言うべきか)後、私たちの間には、先ほどまでのぎこちなさが嘘のように、どこか穏やかな空気が流れていた。夜空には、ひっきりなしに色とりどりの光の花が咲き乱れ、その度に観客たちの歓声と、ドン、という腹に響く重低音が夜気を震わせる。
「静寂さん」未来さんが、私の袖をほんの少しだけ、ためらうように引いた。「もし、ご迷惑でなければ…あちらの『賑わい』にも、少しだけ触れてみてはいかがでしょう? 私、ああいった場所の『熱量』というものに、少しばかり興味がありまして。」
彼女が指差す先には、煌々と灯りが灯り、様々な食べ物や遊戯の屋台が軒を連ねる、いわゆる「出店」のエリアが広がっていた。人々の熱気と、様々な食材の匂いが混じり合い、私の分析モデルにとっては処理すべき情報が一気に増大する、カオスな空間だ。
(出店…期間限定の簡易設営型店舗群。提供される食品は、高カロリーかつ栄養バランスに偏りが見られるものが多い。遊戯もまた、確率論的にリターンが低いものが大半を占める。合理的な選択とは言い難い。だが…)
私の視線は、未来さんの、どこか期待に満ちた、しかしそれを悟られまいと僅かに俯いた横顔へと注がれる。彼女の言う「熱量」とは、単なる物理的なエネルギーのことではないのだろう。それは、人々が生み出す興奮や喜びといった、目に見えない感情の奔流。そして、彼女は、その奔流に触れることで、何かを確かめようとしているのかもしれない。彼女自身の、心の奥底にある「渇望」と響き合う何かを。
「…いいでしょう。データ収集の一環として、その『賑わい』とやらを観測するのも、吝かではありません。」
私のその言葉に、未来さんの表情が、ほんのわずかに、しかし確かに明るくなったように見えた。
私たちは、色とりどりの提灯が揺れる出店エリアへと足を踏み入れた。ソースの焼ける香ばしい匂い、甘い綿あめの香り、そして子供たちのはしゃぎ声。それら全てが渾然一体となり、私の思考ルーチンを心地よく(あるいは、警戒すべきレベルで)麻痺させていく。
未来さんは、育ちの良さを感じさせながらも、その喧騒に物怖じする様子もなく、むしろ興味深そうに一つ一つの屋台を眺めている。
「あれは『たこ焼き』というものですね。丸い形状の中に、タコという軟体動物の断片を内包し、高温で焼き上げる…実に興味深い調理法です。」
「こちらの『りんご飴』は、果実に糖衣を施し、光沢と保存性を高めたもの、でしょうか。その色彩の鮮やかさは、確かに人間の食欲中枢を刺激する効果が期待できますね。」
私たちは、そんな分析とも感想ともつかない言葉を交わしながら、いくつかの食べ物を購入した。未来さんは、ソースと鰹節が踊るたこ焼きのパックを、私は、赤い光沢を放つりんご飴を、それぞれ手に持つ。
「静寂さん、少し、あちらの静かな場所へ移動しませんか?」
未来さんが、人混みを避けるように、河川敷の少し外れ、木々がまばらに生えている薄暗い一角を指差した。そこは、打ち上げ場所からは少し距離があるものの、花火全体を見渡すには悪くない、まさに「穴場」と呼べる場所だった。
(…彼女は、この場所を事前に分析していたのか?それとも、本能的に、このような「静寂」を好むのだろうか…)
私たちは、その場所にたどり着き、買ってきたばかりのたこ焼きとりんご飴を、未来さんがどこからか取り出した、白い無地の上品なハンカチの上にそっと置いた。そのさりげない仕草にも、彼女の育ちの良さが垣間見える。
「…ふう。やはり、私は、少し人混みは苦手なようです。」
未来さんは、そう言って、たこ焼きの竹串を手に取り、小さな口でそれを頬張る。その仕草は、どこか小動物のようで、普段のミステリアスな雰囲気とは異なる、無防備な一面を覗かせていた。
私もまた、りんご飴の、べっこう飴のように硬い表面を、おそるおそるかじる。強烈な甘さが、口の中に広がった。
(…糖分過多。血糖値の急激な上昇。これは、後の身体パフォーマンスに影響を…)
そんな分析が頭をよぎるが、不思議と、不快ではなかった。
夜空には、次々と大輪の花が咲き誇る。ドン、ドン、という重低音が、私たちの身体を揺らす。
未来さんは、時折、小さく「まあ…」と感嘆の声を漏らしながら、その光の饗宴に見入っている。その横顔は、純粋な喜びと、そしてどこか、満たされない「何か」を求めるような、切なさを帯びているように、私には見えた。
(彼女の「影」…それは、「仲間への渇望」…。この賑やかな花火大会の中で、彼女は、その渇望を、一時的にでも紛らわそうとしているのだろうか。それとも、逆に、その渇望を、より強く意識させられているのだろうか…)
私は、りんご飴の甘さとは異なる、何か別の、複雑な感情のデータが、私の心にインプットされていくのを感じていた。この「女の子らしい遊び」は、私にとって、そしておそらくは未来さんにとっても、単なる気晴らし以上の意味を持ち始めているのかもしれない。