異質の誘い
県大会の激闘と、その後の心身の消耗から数週間が過ぎた、夏休みのある日。私の「静寂な世界」は、表面上はいつも通りの秩序を保っていた。だが、その水面下では、公園でのフラッシュバックの記憶と、それに伴う「諦観」や「人間不信」という名の冷たい潮流が、静かに渦巻いていた。
そんなある日の午後、郵便受けに一通の、見慣れない薄紫色の封筒が届いているのに気づいた。差出人の名前は記されていない。だが、そのどこか繊細で、しかし凛とした佇まいの封筒から、私は直感的に、これが誰からのものかを察していた。
自室に戻り、ペーパーナイフで丁寧に封を切る。中から現れたのは、やはり彼女らしい、上質でシンプルな便箋だった。そして、そこには、以前の手紙と同じ、静かで、しかし確かな意思を感じさせる筆跡で、言葉が綴られていた。
『静寂しおり様
先日は、公園での予期せぬ出来事にも関わらず、私のような者に心を砕いていただき、本当にありがとうございました。あなたが無事に回復されたと、三島さん(あかねさん)から伺い、安堵しております。
さて、唐突ではございますが、静寂さんにお伝えしたいことが一つ。
来たる土曜日の夜、この街の河川敷で、ささやかながら花火大会が催されるそうです。
私は、あの短い光の明滅と、夜空に響き渡る音が織りなす、刹那的な現象に、以前から少なからぬ興味を抱いておりました。それは、人間の感情の集団的な発露と、制御不能な自然美が交差する、特異な観測点であるように思えるのです。
もし、静寂さんの分析対象として、あるいは、あなたの言う「静寂な世界」とは異なる種類の「静寂」を体験する機会として、ご興味がおありでしたら…共に、あの光の残像を追いかけてはいただけないでしょうか。
近いうちに、私自身の環境にも、いくつかの「変化」が生じる予定です。その前に、あなたと共有できる時間が、ほんの少しでも持てたなら…それは、私にとって、望外の喜びとなるでしょう。
お返事は、急ぎません。あなたの思考ルーチンが、合理的な判断を下されることを、静かに待っております。
幽基未来』
手紙を読み終えた私は、しばし、その便箋に視線を落としたまま動けなかった。
(花火大会…大勢の人間、予測不能な音と光の連続、制御されていない環境変数。私のこれまでの行動原理からすれば、参加する合理的な理由は見当たらない。むしろ、私の精神状態を不安定にさせるリスク要因の方が高いと判断すべきだ…)
公園でのフラッシュバックの記憶が、まだ生々しい。人混みや大きな音は、再びあの忌まわしい記憶のトリガーとなる可能性を否定できない。
だが、私の思考の片隅で、別の分析が始まっていた。
(幽基未来…彼女の「異質」な卓球。そして、私に対する、あの静かで、しかしどこか共感にも似た眼差し。県大会の後、私が気を失った時、彼女は私のそばにいてくれた。そして、この手紙…そこには、彼女なりの、不器用だが誠実な「何か」が込められているように感じる…)
彼女の言う「環境の変化」とは…。
わからないが、私と「共有できる時間」を望んでいる。それは、友情と呼ぶにはまだ曖昧で、しかし単なるデータ収集以上の意味を持つ、人間的な感情の機微。
(…「人間らしさ」を取り戻す…か)
あかねさんの言葉が、ふと脳裏をよぎる。
(この提案を受け入れることは、私のこれまでの「最適化された自己防衛本能」とは矛盾する。だが、もし、この「矛盾」の中に、私がまだ知らない「何か」…あの冷たい水底から抜け出すための、ほんの僅かな「きっかけ」が存在するのだとしたら…?)
それは、あまりにも非論理的で、そして危険な賭けだ。だが、今の私には、その「賭け」に乗ってみたいという、これまでにはなかった種類の、微かな衝動が芽生えているのを感じた。
行く、と心の中で決めた。だが、そこで一つの問題に直面する。
(…返事を、どうする?幽基さんの連絡先は、私は知らない。いや、そもそも彼女の自宅の住所を知ったとして、私が手紙を出すという行為自体、これまでの私の行動パターンからは逸脱している)
未来さんの手紙には、返信先の住所や連絡先は一切記されていなかった。彼女らしいと言えば彼女らしいが、これはコミュニケーションプロトコルにおける重大な欠陥だ。
(彼女は、私からの返事を期待していないのか?それとも、単に連絡先を記載するという基本的な情報伝達プロセスが欠落しているのか…?後者の場合、彼女の思考ルーチンには、ある種の「抜け」が存在する可能性が高い。興味深いデータではあるが、現時点での私の行動選択には寄与しない)
私は、しばし便箋と封筒を眺め、そして静かにため息をついた。返事ができない以上、私の意思を彼女に伝える手段は限られる。
(…土曜日の夜、河川敷。そこで彼女と合流できなければ、この「実験」は開始されない。だが、行くと決めた以上、行くしかない。彼女が、私からの返事がないことをどう解釈するかは、現時点では予測不能な変数だ。だが、それでも…)
私は、未来さんの手紙を丁寧に畳み、机の引き出しにしまった。
この選択が、私の「異端」に、そして私の凍てついた心に、どのような変化をもたらすのか。それはまだ、誰にも予測できない、新たな実験の始まりだった。そして、その実験は、返信という基本的なステップすら踏めないという、奇妙な困惑と共に幕を開けようとしていた。