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異端の白球使い  作者: R.D
休息
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フラッシュバック

 私たちは、ただ静かに、流れていく時間の中に身を委ねていた。あかねさんの優しい言葉が、私の心の壁をほんの少しだけ溶かしたのかもしれない。あるいは、この穏やかな空気と、木漏れ日の温かさが、私の張り詰めた思考ルーチンを、強制的に緩ませたのだろうか。私は、誘われるように、ゆっくりとベンチの背にもたれかかり、目を閉じた。あかねさんの言う「頭の中を空っぽにする」という行為を、無意識のうちに試そうとしていたのかもしれない。

 微かな安心感が、私の意識を包み込もうとした、その瞬間だった。

 唐突に、鼻腔に、ツン、と刺すようなアルコールの匂いが駆け抜けた。同時に、耳を劈くような、物が割れる激しい音。ガシャン!バリン!ガラスが飛び散る乾いた音まで、すぐ耳元で鳴り響いているかのようだ。

(…何だ…この音は…匂いは…?)

 恐怖で、心臓が喉まで跳ね上がった。全身の筋肉が、意思とは関係なく硬直する。ここ、は…?

 見慣れない、古びた家の情景が、瞼の裏で、視界いっぱいに広がる。張り詰めた、肌を刺すような冷たい空気。「お父さん」と呼ばれた男の、耳朶にこびりついて離れない怒声。その全てが、五感を通して、私の中に、無理やり押し込められてくる。ここは、どこか、私の家の空気にも似ている気がするけれど、もっと、深く、息苦しい、澱んだ何かで満たされている。

「しおり…?どうしたの、急に顔色が…」

 隣から、あかねさんの心配そうな声が聞こえる。だが、その声は、まるで厚い壁の向こう側から響いてくるかのようだ。私の意識は、もうここにはない。

 次の瞬間、場面は一変した。頭に、熱い湯と、硬く、冷たい指の感触が同時に触れる。息ができない。肺が、酸素を求めて、必死に痙攣する。水の中に、顔を沈められている。もがく。抵抗する。その、冷たい手が、私の細い首に、腕に、容赦なく食い込んでくる感触。肌を這い上がる、冷たい、絶望的な感覚。

(くるしい…息が…できない…!)

 一時、力が途切れたのだろうか。顔が水面から引き上げられた瞬間、呼吸をしようと喘ぐ私の目に、それが見えてしまった。水面に映る、歪んだ、苦悶の表情を浮かべた自分の顔。それは、私じゃない、はずなのに、私の顔だ。幼い、あまりにも無力な、あの日の私の顔。苦しい。肺が焼けるように熱い。助けを求めたくても、喉からは、ヒューヒューという情けない音しか漏れない。これは、卓球で息が詰まった時の、あの苦しさなんかじゃない。もっと、根源的な、命の危険を感じるような、逃れられない絶対的な苦痛だ。

 そして、次の瞬間、私は再び顔面を熱湯に叩きつけられる。ゴボッ、という水の音と、自分の短い悲鳴が、頭の中で反響した。

「しおりっ!しおり、しっかりして!」

 身体を強く揺さぶられる感覚。あかねさんの、切羽詰まった叫び声。その声が、まるで暗い海の底から私を引き上げる救命ロープのように、私の意識を無理やり現実へと引き戻した。

 ハッと目を開けると、目の前には、涙を浮かべ、必死の形相で私を見つめるあかねさんの顔があった。私の肩を掴む彼女の手は、小さく震えている。

「…あ…かね…さん…?」

 掠れた声しか出ない。全身は冷たい汗で濡れ、心臓はまだ激しく鼓動を打っている。呼吸も浅く、速い。

「よかった…気がついた…。しおり、すごい魘されてたよ。大丈夫…?どこか痛い?」

 あかねさんは、私の顔を覗き込みながら、ハンカチで私の額の汗を優しく拭ってくれる。その手の温かさが、今の私には、あまりにも現実的で、そして…救いのように感じられた。

(…フラッシュバック…。あの記憶が…)

 私は、ゆっくりと身を起こす。まだ身体の震えが止まらない。

(結局、私は何も変わっていないのかもしれない…)

 心の奥底から、冷たい諦観が湧き上がってくる。

(小学三年生の、あの日から…私はずっと、あの水の中に沈み続けているだけなのかもしれない。どんなに足掻こうとも、そこから抜け出すことなどできないのだ)

 世界は信頼できない場所であり、他者は理解不能で、そしていつ牙を剥くか分からない存在。その認識は、私の思考ルーチンに深く、そして永久に刻み込まれた。あかねさんの純粋な善意も、部長の不器用な優しさも、未来さんの静かな共感も、今の私にとっては、所詮は予測不能な変数の一つに過ぎない。いつか、それらもまた、私を裏切り、私を傷つける可能性を否定できないのだから。

(人間不信…そうだ。私は、誰も信じていない。信じられるのは、自分自身の分析と、そして「勝利」という絶対的な結果だけだ)

 だからこそ、私は「静寂な世界」を希求する。感情というノイズを遮断し、論理と計算だけが支配する、氷のように冷たい、しかし確実な世界を。

(卓球は…?私が卓球をする理由は…?)

 それは、もはや才能や「異端」の追求といった、高尚なものではない。

(これは、逃避だ)

 私は、明確にそう認識する。

(あのトラウマから、あの息苦しい現実から、そして何よりも、あの無力だった過去の自分から逃げるための、唯一の手段。勝利という結果だけが、私に一時的な高揚感と、自己肯定の幻想を与えてくれる。相手を分析し、予測し、そして打ち破る。その過程だけが、私がこの世界をコントロールできているかのような、束の間の錯覚に浸らせてくれるのだ)

 青木桜の「フロー状態」は、その私の脆い幻想を打ち砕いた。だからこそ、私はあれほどまでに絶望し、そして自暴自棄とも言える状態に陥ったのだろう。

(だが…それでいいのかもしれない)

 私の思考は、奇妙なまでに冷静だった。

(私が変わった?いや、私は何も変わってはいない。これが、私という人間の本質だ。自己防衛本能が、この歪んだ形で私を最適化させたに過ぎない。感情を排し、勝利だけを求める。それこそが、私がこの理不尽な世界で生き残り、そして勝ち続けるための、唯一の合理的な戦略なのだから)

 あかねさんが見てくれた「人間らしい感情の萌芽」も、部長が感じてくれたかもしれない「仲間への想い」も、全ては勝利という目的を達成するための、計算された行動パターンの一つに過ぎない。そう結論付けることで、私の心は、再び冷たい「静寂」を取り戻そうとしていた。

「しおり…本当に、大丈夫…?」

 あかねさんが、まだ心配そうに私の顔を覗き込んでいる。

 私は、彼女のその純粋な瞳から、自分の内なる闇を見透かされるような気がして、僅かに視線を逸らした。

「…ええ。少し、疲れていたようです。もう、問題ありません。」

 その声は、いつものように平坦で、感情の起伏を感じさせない。だが、その奥底で、どれほど冷たく、そして歪んだ決意が固められたのかを、あかねさんは知る由もなかった。

 公園の木漏れ日は、依然として穏やかに降り注いでいる。だが、私の瞳に映る世界は、あの日の冷たい水面のように、どこまでも暗く、そして歪んでいた。

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