雑貨屋
…苦い…。
ブレンドコーヒーの最後の苦味を味わい終えた私は、あかねさんに促されるまま、カフェを後にした。
夏の午後の日差しは、先ほどよりも少しだけ傾き、街路樹の影を長く伸ばしている。
私たちの手には、それぞれ飲みかけのドリンクカップと、そして私の新しい「武器」であるタブレット端末が入った紙袋が握られていた。
「ねえ、しおりちゃん」
あかねさんが、隣を歩きながら楽しそうに口を開く。
「さっきのカフェ、雰囲気良かったでしょ? あのラテアートも可愛かったし! しおりちゃんはコーヒーだったけど、今度は一緒に可愛いラテアートのやつ頼んでみようよ!」
彼女の言葉には、先ほどの私の素直な感謝の言葉が、少なからず良い影響を与えているのかもしれない。
彼女の纏う靄の色が、心なしか普段よりも明るく、そして温かいオレンジ色を帯びているように、私の分析モデルは示唆していた。
「…ラテアート、ですか。ミルクの泡の上に、ココアパウダーやチョコレートソースで模様を描く、装飾的飲料提供技術の一つですね。その視覚的効果が、飲用者の満足度パラメータにどの程度の影響を与えるのか、確かに興味深い分析対象ではあります」
私の返答は、相変わらず分析的だ。
だが、以前のような、他者を突き放すような冷たさは、ほんの少しだけ薄れているのかもしれない。
少なくとも、あかねさんは私のその言葉に気を悪くした様子もなく、楽しそうに言葉を続ける。
「そうそう!それでね、次はね、駅の反対側にある雑貨屋さんに行きたいんだ!最近新しくできたお店で、可愛い文房具とか、面白い小物がたくさんあるんだって!もしかしたら、しおりちゃんの新しいタブレットに合うような、カッコいいケースとか、使いやすいタッチペンとかも見つかるかもしれないし!」
彼女は、私の新しいタブレットのことも気にかけてくれているようだ。
その純粋な善意が、私の心の壁を、またほんの少しだけ溶かしていくのを感じる。
雑貨…文房具…これらもまた、私のこれまでの生活ルーチンには存在しなかった変数だ。
…だが、あかねさんと共にそれらを「体験」し、「分析」することは、私の思考モデルに新たな視点を与えるかもしれない。
…そして何より…彼女がこれほどまでに楽しそうにしている理由を、私も少しだけ、理解したいのかもしれない…。
それは、これまでの私にはなかった、他者への純粋な興味と、そして彼女の感情への「共感」に近いものの萌芽だった。
「…分かりました。その雑貨店とやらを、次の分析対象としましょう。入力デバイスの選定は、確かに合理的なタスクです」
私のその言葉に、あかねさんの顔が、ぱあっと太陽のように輝いた。
「ほんと!?やったー!じゃあ、行こう、しおりちゃん!きっと、楽しいよ!」
彼女は私の腕を軽く引き、駅の反対側へと続く横断歩道へと歩き出す。
その小さな手の温かさと、弾むような足取り。
それらが、私の「静寂な世界」に、予期せぬリズムと色彩をもたらしている。
…「楽しい」という感情パラメータ。それは、卓球の勝利によって得られる達成感や満足感とは異なる、もっと曖昧で、しかし…不快ではない何か。この感情が、私の「異端」に、そして私の戦術に、どのような影響を与えるのか…それはまだ、未知数だ。だが…。
私は、あかねさんの隣を歩きながら、ふと、県大会の決勝戦、あの最後の「偶然のエッジイン」を思い出す。
あの時、私の心によぎったのは、計算でも分析でもない、何か別の…もっと人間的な「何か」だったのかもしれない。
そして、その「何か」の正体を、私は、この「女の子らしい遊び」という名の、新たな「実験」の中で、見つけ出すことができるのだろうか。
夏の午後の日差しは依然として強いが、先ほどまでの緊張感とは異なる、どこか緩やかな空気が私たちを包んでいる。
あかねさんは、時折私の新しいタブレットの話題を振っては、どんなケースがいいか、どんなアプリが便利かなどを楽しそうに語っている。
その言葉の一つ一つを、私は思考ルーチンに記録し、後の分析対象として保存していく。
しばらく歩くと、あかねさんが「ここだよ!」と指差した先に、ガラス張りの、明るく開放的な雰囲気の雑貨店が見えてきた。
店内には、色とりどりの小物や、デザイン性の高い文房具、可愛らしいキャラクターグッズなどが所狭しと並べられ、若い女性客で賑わっている。
私にとっては、クレープ以上に未知の要素が密集した空間だ。
「わー!やっぱり可愛いものがいっぱい!しおりちゃん、見て見て、このノート!表紙の猫の絵、なんだか未来さんに似てない?」
あかねさんは、入店するなり目を輝かせ、様々な商品を手に取っては私に見せてくる。
彼女が指差したノートには、確かに、どこか掴みどころのない、それでいて不思議な存在感を放つ黒猫が描かれていた。
…猫。夜行性、単独行動を好む、高い運動能力と平衡感覚を持つ哺乳類。幽基未来さんのプレースタイルとの類似性は…現時点では不明瞭だが、興味深い連想だ。
「…猫、ですか。確かに、その黒猫の持つ雰囲気は、幽基さんのそれを彷彿とさせるかもしれませんね。データの記録媒体としてのノートの機能性に、このような装飾的要素がどの程度影響を与えるのか、考慮すべきパラメータが…」
私のその分析的な返答に、あかねさんは「もう、しおりはすぐ分析するんだから!」と楽しそうに笑いながらも、「でも、未来さんもこういうの、意外と好きかもしれないよね!」と、未来さんのことを思い浮かべているようだった。
私たちは、店内をゆっくりと見て回る。
あかねさんは、カラフルなペンや、動物の形をしたクリップ、香りの良い消しゴムなどを見つけては、その度に「可愛い!」と声を上げている。
彼女の感情パラメータは、この空間において常に高い数値を維持しているようだ。
一方、私は、主に実用性と機能性の観点から商品を評価していた。
このボールペンのグリップの材質は、長時間の筆記による指先の疲労を軽減する効果が期待できる。インクの粘度と紙への浸透速度も、記録の可読性に影響を与える重要な要素だ…。
この付箋の色彩パターンは、情報の優先順位付けや分類における視覚的認識効率を高める可能性がある…。
そんな中、あかねさんが、一つのタッチペンを手に取り、私の前に差し出した。
「ねえ、しおりちゃん!これ、どうかな?しおりちゃんの新しいタブレットに合うと思うんだけど!シンプルだけど、このメタリックな感じ、なんだかしおりちゃんっぽいし、すごく軽くて持ちやすそうだよ!」
彼女が差し出したのは、余計な装飾の一切ない、しかし洗練されたデザインの細身のタッチペンだった。
確かに、そのミニマルな機能美は、私の好みに合致する。
そして、実際に手に取ってみると、その軽さとバランスの良さは、長時間のデータ入力や分析作業における負担を軽減してくれるだろうと、私の分析モデルは即座に結論を出した。
「…悪くありませんね。ペンの重心バランス、指先との接触面積、そして筆圧感知の精度…これらは、私の要求する水準を満たしている可能性が高いです。購入を検討しましょう」
「ほんと!?やった!やっぱりしおりちゃんには、こういうのが似合うと思ったんだ!」
あかねさんは、自分のことのように嬉しそうだ。
その純粋な笑顔は、私の「静寂な世界」に、またしても予期せぬ温かい光を投げかける。
…あかねさんの「可愛い」という評価基準と、私の「合理的」という評価基準。それらが、このタッチペンという一点において、偶然にも一致した。これは、興味深い現象だ。
…彼女の直感的な選択が、結果として私の要求する機能性を満たしていた。この「共感」に近い感覚は、今後の私たちの連携について、新たな変数として作用するのだろうか…。
私は、そのタッチペンを静かに手に取り、レジへと向かうあかねさんの後ろ姿を、いつもよりほんの少しだけ、人間的な興味を持って見つめていたのかもしれない。
この「女の子らしい遊び」という名のフィールドワークは、私にとって、卓球の試合とは異なる種類の、しかし決して無意味ではない「データ」と「経験」をもたらし始めていた。