ショッピング(4)
県大会の激闘と、その後の心身の消耗から数週間が過ぎた、夏休みのある日。私とあかねさんは、駅前の賑やかな商店街を歩いていた。目的は、先日購入したタブレット端末の周辺機器の調達と…そして、あかねさんが強く推奨する「女の子らしい遊び」の実地調査だ。正直なところ、後者に対する私の興味は、依然として分析対象としてのデータ収集の域を出ない。だが、あかねさんのあの太陽のような笑顔と、純粋な期待に満ちた瞳を前に、「合理的ではない」と切り捨てることは、今の私にはできなかった。
「まずは、あそこ!最近できたクレープ屋さん!クラスの皆も美味しいって言ってたんだよ!」
あかねさんが指差す先には、カラフルな看板と甘い香りを漂わせる小さな店があった。店の前には、既に数人の女子中学生らしき集団が、楽しそうにメニューを選んでいる。
(クレープ…小麦粉を薄く焼いた生地に、果物やクリームを挟んだ洋菓子、か。栄養価、摂取カロリー、そしてそれが私の身体パフォーマンスに与える影響は…)
私の思考が、自動的に分析モードへと移行しようとした、その時。
「しおりは何にする?私、やっぱりチョコバナナカスタードにしよっかなー!でも、期間限定のマンゴースペシャルも気になるんだよね…うーん、迷う!」
隣で、あかねさんが心底楽しそうに、そして真剣に悩んでいる。その表情は、県大会のベンチで見せた緊張感とは全く異なり、年相応の、屈託のないものだ。
(…この状況における最適解は、彼女の提案に乗り、行動を共にすることによって得られる観察データと、関係性パラメータの変動値を最大化すること、か)
私は、メニュー表に視線を落とす。無数の甘味の名称と写真。どれも、私にとっては未知の変数ばかりだ。
「…では、私は、最も基本的な構成要素と思われるものを選択します。カスタードと、果物は…そうですね、イチゴというのはどうでしょうか。」
私のその言葉に、あかねさんは「うん!イチゴカスタードね!それも絶対美味しいよ!」と嬉しそうに頷き、慣れた様子で注文を済ませてくれた。
手渡されたクレープは、温かく、そして想像以上に甘い香りがした。あかねさんは、大きな口でチョコバナナカスタードを頬張り、至福といった表情を浮かべている。
「んー!おいひー!しおりも早く食べてみて!」
私は、促されるままに、そのイチゴカスタードと名付けられた物体を、おそるおそる口に運ぶ。
(…食感、粘性、糖度…舌の味蕾細胞への刺激と、それが脳に伝達されるまでの時間差は…)
分析しようとする私の思考を遮るように、予期せぬ甘さと、イチゴの酸味、そしてカスタードクリームの滑らかな舌触りが、私の口腔内を満たした。
「…これは…」
「どう?美味しいでしょ?」
あかねさんが、期待に満ちた瞳で私を見つめている。
「…はい。私の予測モデルには存在しなかった、複雑で、そして…不快ではない感覚です。」
私のその、いつもの分析的な、しかしどこか率直な感想に、あかねさんは一瞬きょとんとした後、声を上げて笑った。
「しおりの感想って、やっぱり面白いね!でも、気に入ってくれたみたいで良かった!」
その後、私たちは駅ビルの中にある、少し落ち着いた雰囲気のカフェへと移動した。大きな窓からは夏の強い日差しが斜めに差し込み、店内に明るいコントラストを生み出している。私はブレンドコーヒーを、あかねさんは可愛らしいラテアートが施されたカフェキャラメルを注文し、窓際の席に腰を下ろした。
「しおりはさ、コーヒーとか平気なんだね。なんだか意外」
あかねさんが、少し驚いたように私に尋ねる。
「…別に、好きというわけではありません。ただ、カフェインには覚醒効果と集中力向上の作用が確認されています。摂取量とタイミングを最適化すれば、トレーニングや分析作業の効率を上げる変数となり得ますから。」
いつものように平坦な声で答える私に、あかねさんは「そっか、しおりらしいね!」と楽しそうに笑う。その笑顔は、県大会のベンチで見せた緊張や涙の痕とは異なり、今は太陽のように明るい。
「でもね、しおり」不意に、あかねさんの声のトーンが少しだけ真剣なものに変わった。「県大会の後、本当に大変だったよね…。私、あの時、しおりが気を失っちゃった時、本当にどうしようかと思って…。何もできなかったけど…でも、しおりがまたこうして一緒に笑ってくれて、本当に嬉しいんだ。」
その言葉には、県大会での私の異様な状態を間近で見ていた彼女の、偽らざる安堵と、そして私への深い友情が込められているように感じられた。私の胸の奥が、ほんのわずかに、しかし確かに温かくなるのを感じる。それは、私の分析モデルではまだ正確に定義できない、複雑で、そして不快ではない感情の揺らぎだった。
「…あかねさん。」私は、カップをソーサーに置き、彼女の目を真っ直ぐに見つめて言いました。「あの時、あなたがタイムアウトを取ってくれたこと、そして、ずっとそばにいてくれたこと。それは、私にとって、決して無意味ではありませんでした。…感謝しています。」
それは、これまでの私からは決して出てこなかったであろう、素直な、そしてほんの少しだけ感情の温度が乗った言葉だったかもしれない。あかねさんの瞳が、驚きと、そしてそれ以上の喜びで、大きく見開かれる。彼女の頬が、ほんのりと赤らんだように見えた。
「う、うん…!私の方こそ、ありがとう!しおりがそう言ってくれて、すごく嬉しい…!」
あかねさんは、照れくさそうに俯きながらも、その声は弾んでいる。
私は、ふと、窓の外の喧騒に視線を移す。道行く人々、車の流れ、遠くで聞こえる蝉の声。それらは、いつも通りの日常の風景。だが、今の私には、それらが以前とは少しだけ違って見えているような気がした。
「…しおりは、夏休み、何か予定とかあるの?卓球の練習以外で、だけど」
あかねさんが、再び明るい声で尋ねる。
「予定…ですか。ブロック大会と全国大会に向けたトレーニングスケジュールの最適化、対戦相手のデータ分析、そして新たな戦術パターンのシミュレーションと実験が最優先事項です。それ以外の余剰な活動は、現時点では組み込んでいません。」
私のその返答に、あかねさんは「やっぱりそうだよねー」と苦笑いする。
「でもさ、たまには息抜きも必要だよ!ねえ、今度、もしよかったら…うーんと…」
彼女は、何かを一生懸命考えているようだ。その小さな頭の中で、一体どのような「女の子らしい遊び」のパラメータが計算されているのだろうか。
「…例えば、映画とかどうかな?最近、面白そうなのやってるみたいだし!」
「映画…ですか。それは、どのようなジャンルのものを指しているのですか?SF、アクションのような物理法則が消えている非合理的な…、あるいは…恋愛、といった非合理的な感情の変遷を描写したものですか?」
私の問いに、あかねさんは「うーん、恋愛映画もいいけど、しおりと一緒なら、何かこう…スカッとするアクションとか、あるいは感動するアニメとかでもいいかも!」と楽しそうに答える。
(映画…視覚情報と聴覚情報から構成される、物語という名のデータパッケージ。その情報伝達効率と、鑑賞者の感情パラメータへの影響力は、確かに興味深い分析対象だ。そして、あかねさんとそれを共有するという行為は、私たちの関係性に、新たな変数を加えることになるのかもしれない…)
以前の私なら、「時間の無駄です」と即座に切り捨てていたかもしれない提案。だが、今の私は、そこに何か別の価値を見出し始めているのかもしれない。それは、勝利という絶対的な目標とは異なる、しかし決して無意味ではない、人間的な「何か」。
「…検討します。合理的な時間配分と、その活動が私のパフォーマンスに与える影響を分析した上で、結論を出しましょう。」
私のその言葉に、あかねさんは一瞬きょとんとしたが、すぐに「うん!楽しみにしてるね!」と、太陽のような笑顔を見せた。
この「女の子らしい遊び」という名の、新たなデータ収集と分析は、私の「異端」に、そして私の「静寂な世界」に、どのような影響を与えていくのだろうか。それはまだ、未知数だ。だが、この温かいコーヒーの苦味と、隣で微笑む彼女の存在が、決して悪いものではないということだけは、今の私にも、はっきりと理解できた。そして、その理解は、県大会の激闘を経た私の心に、ほんの少しだけ、人間らしい感情の「余白」のようなものを生み出しているのかもしれない。
私の「静寂な世界」に、どのような影響を与えていくのだろうか。それはまだ、未知数だ。だが、この温かいコーヒーの苦味と、隣で微笑む彼女の存在が、決して悪いものではないということだけは、今の私にも、はっきりと理解できた。