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異端の白球使い  作者: R.D
決勝
184/674

予測不能の魔女(5)

 先ほどの「ネットインエッジイン」での得点。それは、私の計算も分析も超えた、何度か検証はしたが、再現性の低い、まさに偶然の産物だった。だが、その偶然が桜選手の「フロー状態」に与えた心理的影響は、計り知れないほど大きいはずだ。私は、その「偶然」すらも、私の戦術データの一つとして利用する。


 私は、再びあの下回転をかけるかのような大きなテイクバックのモーションに入る。桜選手の表情に、先ほどの「ありえない一打」の残像が、まだ色濃く焼き付いているのが見て取れた。彼女の構えに、ほんのわずかな硬さ、そしてネット際への過剰なまでの警戒心が見える。

(あなたの思考は、今、私の「奇跡」に囚われている。ならば、その思考の隙間を、私は見逃さない…!)

 私は、下回転のショートサーブを、桜選手のバックサイド、ネット際に送り込んだ。これは、先ほどのネットインエッジインを再び試みるかのような、明確なフェイント。

 桜選手の脳裏に、あの悪夢のようなボールの軌道がよぎったのだろう。彼女は、たまらずといった表情で、そのショートサーブに対し、バックハンドで、やや無理な体勢からフリック気味にボールを高く、そして私のバックサイド深くに押し込んできた。私を台から引き離し、ネット際の攻防を避けようという意図が明確だ。

 しかし、その無理にフリックした打球は、回転が甘く、そしてコースも私の予測の範囲内。それは、私にとって絶好の攻撃チャンスとなるボールだった。

(…甘い球質、これは…私の新たな武器を試す、絶好の機会だ…!)

 私は、そのボールに対し、ラケットをスーパーアンチの面に持ち替える。私の脳裏には、第4セットの絶望の中で、そしてその後の自問自答の中で、無意識のうちに研ぎ澄まされていた、新たな「異端」の形があった。

 私は、その甘い返球に対し、体を僅かに沈め、そして、スーパーアンチのラバー面で、ボールのやや上部を、ドライブともプッシュともつかない、独特のモーションでコンパクトに、しかし鋭く押し出すように捉えた!

 放たれたボールは、これまでの私のどの打球とも異なる、特異な軌道を描いた。回転がほとんどかかっていない「ナックル」でありながら、ドライブのような低い弾道とスピードを併せ持つ、まさに「アンチラバーでのナックルドライブ」。ボールは、桜選手の予測とは全く異なるコース、彼女のフォアサイド深くに、まるで死んだ魚が滑るかのように、しかし驚くほどの速さで突き刺さった!

 桜選手は、その見たこともない球質のボールに対し、咄嗟にフォアハンドドライブで応戦しようとする。しかし、回転のない、そして予測不能な沈み方をする「死んだようなボール」を持ち上げることは、彼女の「フロー状態」の卓越した技術をもってしても、不可能だった。彼女のラケットは、ボールの下を虚しく擦り上げ、ボールは無情にもネットの下を通り過ぎていった。

 静寂 9 - 5 青木

(…成功。これが、私の新たな「異端」。スーパーアンチの特性を、守備や変化だけでなく、攻撃へと転用する…私の「静」と「動」の融合の、一つの到達点…)

 桜選手は、その場に立ち尽くし、信じられないといった表情で、ボールが消えていった空間と、私のラケットを交互に見つめている。彼女の「フロー状態」の絶対的なオーラに、今度こそ明確な亀裂が入ったのを、私は確かに感じ取った。

 ベンチのあかねさんが、息をのむ音と共に「しおり…今の…なに…?」と震える声で呟いているのが聞こえる。観客席の部長も、未来さんも、おそらくは言葉を失っているだろう。私のこの「新たな武器」は、彼らの想像すらも超えていたはずだからだ。


 私のリードは4点。だが、目の前の桜選手の瞳には、まだ諦めないという強い意志の光が灯っている。彼女の「フロー状態」は、先ほどの私の予測不能なサーブと、それに続くアンチラバーでのナックルドライブによって僅かに揺らいだように見えた。しかし、常勝学園のエースが、このまま簡単に崩れるとは思えない。

(彼女のフロー状態が解けかけている…?いや、まだだ。あの青木桜が、この程度のことで完全に集中を失うはずがない。だが、確実に、私の「異端」は彼女の精神に影響を与えている…)


 桜選手は、静かに息を整え、サーブの構えに入る。彼女の表情には、第4セットで見せたような絶対的な自信ではなく、むしろこの一点に全てを懸けるという、悲壮なまでの覚悟が浮かんでいる。

 彼女が放ったのは、再びあの私のバックサイド深くへと鋭く沈み込む、強烈なバックスピン(下回転)のロングサーブ。彼女は、この土壇場で、自分の最も得意とするサーブで、流れを引き戻そうとしている。

(…また、このロングサーブ。私の体力を削り、ドライブ戦に持ち込もうという意図。だが、今の私には、あなたのその思考すらも、嘲笑うかのように手に取るように分かる…!)

 私は、そのサーブに対し、ラケットを裏ソフトの面に持ち替えることはしない。スーパーアンチの面のまま、ボールのバウンドの頂点を正確に捉え、彼女の強烈な下回転サーブの回転を完全に利用し、そして殺し、直線的で、しかし予測不能な僅かな揺らぎを伴うナックル性のボールを、桜選手のバックサイド、オープンスペースへと、まるで指し穿つかのように鋭く打ち込んだ!それは、サーブの回転を利用した、完璧な2球目攻撃。

 桜選手は、そのあまりにも速く、そして回転のないボールに対し、反応が一瞬遅れた。彼女が懸命に伸ばしたラケットは、ボールにかすることなく、虚しく空を切る。


 ついにマッチポイント。体育館全体が、息をのむような静寂に包まれる。ベンチのあかねさんの、祈るような視線。観客席の部長の、固唾をのんで私を見つめる真剣な眼差し。そして、未来さんの、全てを見通すかのような静かな瞳。それら全てが、私の背中を押しているように感じられた。

(あと一点…この一点で、全てが終わる…私の、そして私たちの戦いが…!)


 桜選手は、唇をきつく結び、最後の力を振り絞るかのようにサーブを放つ。それは、先ほどの私の、彼女の自信を打ち砕いたかのようなドライブの残像を脳裏から消し去るように、もう一度、同じバックスピンのロングサーブ。彼女は、あくまで自分の「王道」の卓球で、この土壇場を覆そうとしているのだ。

 私もまた、そのサーブに対し、裏ソフトのフォアハンドで応戦する。ここから、この試合の、そして私たちの、最後の攻防が始まった。

 桜選手は、私のループドライブに対し、台から下がることなく、力強いドライブで反撃してくる。私もまた、そのボールに対し、回転とスピードに緩急をつけたループドライブで応酬する。ボールは、目にも留まらぬ速さでネットの上を往復し、互いの魂がぶつかり合うかのような、壮絶なラリー戦となった。

 一球一球に、全ての集中力と精神力を注ぎ込む。私の思考は、もはや分析や計算を超越し、ただ目の前の白いボールと、それを打ち返す相手の動きだけに、極限まで研ぎ澄まされていた。

 そして、十数球続いたであろう、その長い長いラリーの果て。桜選手のフォアハンドドライブの軌道が、ほんのわずかに、本当に紙一重、甘くなった瞬間を、私は見逃さなかった。

(…今だ…!)

 私は、その僅かな隙を見逃さず、一歩深く踏み込んだ。そして、放ったのは――これまでの私のどの「異端」とも異なる、しかし、今の私だからこそ打てる、渾身の一打。

 それは、まるで桜選手自身の自信に満ち溢れた、あの美しいフォームから繰り出される力強いドライブを、寸分違わぬ形で模倣したかのような、フォアハンドドライブ。しかし、そこに込められていたのは、単なる模倣ではない。彼女の心を、そして彼女の「王道」を、完全に打ち砕こうとする、私の静かで、しかし強烈な意志。

 ボールは、桜選手の予測を完全に裏切り、彼女のバックサイド深くに、まるで吸い込まれるようにして突き刺さった!

 静寂 11 - 5 青木

 セットカウント 静寂しおり 3 - 2 青木桜

 体育館が、一瞬の静寂の後、割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。

 私は、ラケットを握りしめたまま、その喧騒の中で、ただ静かに立っていた。膝が、笑っている。全身から、力が抜け落ちていくのを感じる。

(…終わった…。勝った…。私の、「異端」が…)

 ネットの向こう側で、桜選手が、ゆっくりとラケットを置き、そして、深々と頭を下げた。その表情は見えない。だが、彼女の肩が、ほんのわずかに震えているのが、私には分かった。

 私たちの、長く、そして激しい戦いは、今、終わった。そして、私の「異端の白球」の物語は、この勝利の先に、まだ続いていくのだ。

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