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異端の白球使い  作者: R.D
決勝
183/674

予測不能の魔女(4)

 最終セット、私は6-4と僅かにリードを保っている。だが、第4セットで経験したあの絶対的なまでの力の差、そして心の奥底にこびりついた敗北の記憶は、まだ私の全身を重く支配していた。それでも、私は勝たなければならない。勝利という結果だけが、この私という存在を肯定する唯一の手段なのだから。その渇望だけが、今の私を突き動かす全てだった。

 6-4、桜サーブ1本目

 桜選手は、静かに息を整え、サーブの構えに入る。彼女の瞳の奥には、依然として「フロー状態」の絶対的な集中力が宿っているが、その表情には、第4セットで見せたような圧倒的な余裕ではなく、むしろこの最終セットの死闘に対する、ある種の覚悟のようなものが感じられた。

 彼女が放ったのは、私のバックサイド深くへと鋭く沈み込む、強烈なバックスピン(下回転)のロングサーブ。

(…ロングサーブ。そして、この回転量。私を台から下げさせ、彼女の得意なドライブ主体のラリー戦へと引きずり込もうという明確な意図…。私の体力が限界に近いことを見越しての、消耗戦への誘いか…)

 私は、その誘いにあえて乗る。裏ソフトのフォアハンドで、ボールをしっかりと捉え、回転量の多いループドライブで応戦する。ボールは、高い弧を描き、桜選手のバックサイド深くに吸い込まれていく。

 ここから、壮絶なドライブの応酬が始まった。桜選手は、一歩も台から下がることなく、私のドライブに対し、さらに回転を上乗せしたかのような、重く、そしてコースの厳しいドライブを左右に打ち分けてくる。私もまた、そのボールに食らいつき、執拗なまでにドライブで返し続ける。一球一球に、勝利への渇望が、私の意思とは無関係にラケットへと伝播していくようだ。

(…まだだ…まだ、終わらせない…!このボールを、ねじ伏せる…!)

 数回のラリーが続いた。桜選手のドライブの回転が、徐々に、しかし確実に鋭さを増してくるのが分かる。そして、彼女の打球が、ついに私の予測を超えた回転量で、フォアサイドに浅く、しかし鋭く食い込んできた、その瞬間――。

 私は、咄嗟に体勢を低くし、ラケットを裏ソフトの面のまま、ボールの下に滑り込ませるようにして、まるでカットマンのような、深い下回転のカットで返球した!それは、第3セットの終盤で見せた、あの「王道」の粘りの再現。しかし、今のそれは、戦術的な意図というよりも、もはや本能的な、勝利への執着が生み出した動きだった。

 桜選手は、その予測外のカットに一瞬体勢を崩される。彼女が慌ててドライブで繋いできたボールは、回転が甘く、私のフォアサイドに山なりに浮き上がった。

(…もらった…!)

 私は、その絶好のチャンスボールを見逃さない。一歩踏み込み、裏ソフトのフォアハンドで、桜選手のいないバックサイド、オープンスペースへと、渾身のカウンタードライブを叩き込んだ!ボールは、コートに深々と突き刺さる。

 静寂しおり 7 - 4 青木桜

(…取った。この一点は、私の執念がもぎ取った一点だ…!)

 私の荒い息遣いだけが、静まり返ったコートに響く。

 7-4、桜サーブ2本目

 桜選手は、今の失点にも表情を崩さない。だが、その瞳の奥に、私のこの異常なまでの執念に対する、ほんのわずかな警戒の色が浮かんだのを、私は見逃さなかった。

 彼女は、再びバックスピンのロングサーブを、今度は私のフォアサイドへと放ってきた。そして、そこから、第1打よりもさらに速いテンポで、ドライブ主体のラリー戦を仕掛けてくる。一気に勝負を決めに来るつもりのようだ。

 私もまた、その速攻に食らいつく。裏ソフトでのドライブの応酬。火花が散るような、壮絶な打ち合い。

(このラリー…絶対に負けるわけにはいかない…!ここで打ち勝てば、流れは完全に私のものになる…!)

 桜選手のドライブが、私のミドルを厳しく襲う。私は、それをバックハンドでカウンターしようと踏み込んだ。ボールの回転、スピード、コース…全て読み切ったはずだった。

 しかし――。

 私の放ったカウンタードライブは、ボールの僅かな変化に対応しきれず、無情にもネットを大きく越えて、コートの外へと消えていった。

 静寂しおり 7 - 5 青木桜

(…今のドライブ…なぜ…?私の分析では、完璧なタイミングだったはずだ…。何かが…何かが狂っている…?私の身体か…それとも、私の思考か…?)

 完璧な読みだったはずのカウンタードライブのミスは、私の身体と精神が、確実に限界に近づいていることを示唆していた。タイムアウトは、もうない。ここからは、私自身の力だけで、この死闘を乗り越えなければならないのだ。

(勝つ…!何としてでも…!)

 心の奥底で燻る、勝利への渇望だけが、今の私を支える唯一の柱だった。

 私は、再びあの下回転をかけるかのような、大きなテイクバックのモーションに入る。桜選手の全神経が、私のラケット面、手首の動き、そしてトスの高さに集中しているのが、肌で感じられた。

(このラリー…私は、この一点を、私の計算と、そして私の「異端」で、確実に奪い取る。3球目、5球目と彼女のコートを左右に散らし、7球目で、あなたの予測の及ばないコースへ、決定打を叩き込む…!)

 私は、横下回転のショートサーブを放った。それは、彼女が予測しうる変化の一つ。コースは彼女のバックサイドネット際だ。

 桜選手は、それを的確にツッツキで私のフォアサイドに、やや山なりだが回転量の多いボールで返球してきた。私の3球目攻撃を誘い、そして彼女自身の4球目攻撃に繋げるための、計算された布石。

 私は、そのボールに対し、裏ソフトのフォアハンドで、さらに厳しい下回転のツッツキを、桜選手のバックサイド深くに、ネットすれすれの低い弾道で返球する。

 桜選手は、苦しい体勢ながらも、その低いボールを、驚異的な集中力で拾い上げ、再び下回転のツッツキで私のフォアサイドへと返してきた。そのボールは、先ほどよりも僅かに浅く、そして回転もやや甘い。

(…来た…!)

 その瞬間、私は、そのボールの質が、かつて部長と繰り返し練習した、あの「ネットイン・エッジイン・コントロール」を試みるための再現球と、ほぼ同じであることに気づいた。私の脳裏に、あの薄暗い体育館で、部長の呆れたような、しかしどこか期待に満ちた声援を受けながら、憑かれたように同じ練習を繰り返した記憶が、鮮明にフラッシュバックする。

(このボール…あの時の…!まさか、この土壇場で、この状況で…?)

 私の身体は、思考よりも先に動いていた。もはや、7球目攻撃のシミュレーションなど、頭の片隅にもない。まるで何かに導かれるかのように、私の右手首が、そしてラケットを持つ指先が、あの時の感覚を無意識のうちにトレースしようとしていた。

 スーパーアンチの面に持ち替えることもなく、裏ソフトのラバー面で、ボールのバウンドの頂点を捉える。そして、ボールの勢いを完全に殺し、ラケット面を僅かに被せ、極めて短いタッチでボールの真下を「引き込む」ような――あの、部長との「実験」で、数えきれないほどの失敗の果てに、ほんの数度だけ成功した、奇跡のタッチ。

 ボールは、私のラケットに触れた瞬間、全ての推進力を失い、ふらふらと、まるで意思を持ったかのようにネットへと向かう。体育館の全ての音が消え、私と桜選手、そして白い球体だけが存在する、絶対的な静寂。

 そして、ボールは、ネットの白帯の上を、信じられないほどゆっくりと、しかし確実に転がり――カツン、という乾いた、しかし私の心臓を直接打つかのような音が響き渡り、相手コートのエッジぎりぎりに、まるで吸い込まれるようにして落ちたのだ!

 静寂しおり 8 - 5 青木桜

 私は、無表情のまま、軽く会釈をする。だが、内心では、自分自身が起こした現象に対する、理解を超えた戦慄が全身を駆け巡っていた。

(今のは…私が、やったのか…?いや、違う…。私の身体が、勝手に…まるで、あの時の練習の記憶が、この極限状況で再生されたかのように…)

 桜選手は、その場に立ち尽くし、信じられないといった表情で、ボールが落ちた一点を凝視している。彼女の「フロー状態」の絶対的な集中力ですら、この「ありえない一打」は予測できなかったのだろう。

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