タイムアウト
あかねさんが要請したタイムアウト。私は、重い足取りでベンチへと戻る。第4セットの惨敗…3-11というスコアが、脳裏に焼き付いて離れない。まるで生きていることを否定されたかのような、深い虚無感が私を包み込んでいた。
あかねさんが、何も言わずに冷たいタオルとスポーツドリンクを差し出してくれる。その瞳には、痛々しいほどの心配と、それでも私を信じようとする健気な光が揺れている。だが、今の私には、彼女のその優しさすらも、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。言葉を交わす気力も、そして資格もないように思えた。私はただ、差し出されたドリンクを機械的に受け取り、一口だけ口に含む。味は、しない。
(…なぜだ?なぜ、私はこれほどまでに「勝利」に固執するのだろう…?)
心の奥底から、問いが湧き上がってくる。それは、これまで私が意図的に蓋をしてきた、根源的な問いだったのかもしれない。
(勝利とは、一体何だ…?相手を打ち負かし、スコアボードに優位な数字を刻むことだけが、勝利なのか…?私が求めてきたものは、本当にそれだけだったのか…?)
青木桜選手の「フロー状態」。あの絶対的なまでの集中力と、最適化されたパフォーマンス。私の分析も、私の「異端」も、あの力の奔流の前では、あまりにも無力だった。私の積み上げてきた全てが、まるで砂の城のように脆く崩れ去った。
(私の卓球は…私の存在意義は…あの程度のものだったというのか…?)
自己否定の感情が、黒い靄のように思考を覆い尽くす。小学三年生の「あの日」の記憶…周囲からの冷たい視線、孤独感、そして自分の無力さ…。あの時感じた絶望が、今、この決勝の舞台で、鮮明な輪郭を持って再び私に襲いかかろうとしていた。
(勝たなければ、意味がない…)
そうだ、と心の奥底で誰かが囁く。それは、これまでの私が絶対の真理としてきた声。
(私がここにいる意味。私が卓球をする意味。それは全て、「勝利」という結果によってのみ証明される。それ以外に、私という「異端」を受け入れてくれる場所など、どこにもないのだから…)
だが、本当にそうなのか?
あかねさんの顔が脳裏をよぎる。彼女は、第4セットで私が、無様にポイントを重ねられていく間も、決して私を見捨てようとはしなかった。その瞳は、いつも私を真っ直ぐに見つめ、「しおりの卓球が好きだ」と言ってくれた。
(彼女の言う「好き」とは、一体何を指しているのだろう…?私の勝利か?私の「異端」な戦術か?それとも…この、壊れかけた私自身をも、彼女は…?)
理解できない。彼女の感情は、私の分析モデルではエラーとしてしか処理できない、未知の変数だ。
部長の顔も浮かんでくる。あの人は、私の「異端」を「変態的」と呼びながらも、決して否定はしなかった。むしろ、面白がり、そして私との練習の中で、彼自身もまた進化しようとしていた。彼が私に託した「お守り」としてのラケット…。
(あの人は、私に何を期待していたのだろう…?ただの勝利か?それとも、もっと別の何かを…?)
「風花」という存在。仲間を守れなかったという後悔。そして、今度こそ守り抜くという決意。彼の「熱」は、一体どこから来るのだろう。私には、まだ理解できない。
(勝つための手段は…?)
思考が、再び現実へと引き戻される。
(青木桜の「フロー状態」を打ち破る手段は、今の私にはないのかもしれない。私の「異端」は、彼女の絶対的な「王道」の前では、既にその輝きを失った。では、どうすれば…?)
第4セットの私は、明らかに壊れていた。冷静な分析も、精密なコントロールも失い、ただ勝利への執着だけで、闇雲にラケットを振っていた。あれが、私の限界だったのか?
(いや…まだだ…)
心の奥底で、何かが小さく、しかし確かに脈打つのを感じる。
(あの第3セットの終盤…私が追い詰められた時、私の身体は、私の意志とは別に、ボールに食らいついていた。あれは…計算でも分析でもない、もっと原始的な…「諦めない」という意志そのものだったのではないか…?)
そして、あの「偶然のエッジイン」。
(運…?偶然…?そんな非論理的なものに、私は頼るというのか…?だが、あの時、確かに何かが私を突き動かした。それは、もはや「異端」でも「王道」でもない、もっと別の…)
インターバル終了を告げるブザーの音が、思考の海に沈んでいた私の意識を、強引に現実へと引き揚げる。
私は、ゆっくりと顔を上げた。あかねさんが、心配そうに、しかしどこか決意を秘めたような瞳で私を見つめている。
(…勝利とは、何なのか。なぜ、勝たなければならないのか。勝つための手段は…)
その答えは、まだ見つからない。だが、一つだけ確かなことがある。
私は、まだ、諦めていない。
この絶望の淵で、私の心の奥底で燻り続ける、勝利への異常なまでの執着。それが、例えどれほど歪んでいようとも、今の私を突き動かす唯一の力なのだ。
そして、その執着の先に、もし何か別の「意味」が見出せるのだとしたら…。
「…あかねさん。」
私は、初めて、彼女の名前を呼んだ。その声は、自分でも驚くほど静かで、しかしどこか澄んでいた。
「…最終セット、行ってきます。私の…私の全てを、見ていてください。」
それは、これまでの私からは決して出てこなかったであろう、感情のこもった、そして仲間への「何か」を求めるような言葉だった。
あかねさんは、一瞬目を見開いたが、すぐに力強く頷き、その瞳に再び涙を浮かべた。
…勝つ、いまは、それだけ