ラリー戦 vs ストップ
静寂 4 - 2 青木
最終セット、桜選手は静かに息を整え、サーブの構えに入る。
彼女が選択したのは、これまでの下回転系とは異なり、回転を抑えたナックル性のロングサーブ。
私のフォアサイド、台から出るか出ないかの絶妙なコースへと、速い弾道で送り込んできた。
…サーブの種類を変えてきた。そして、これは…私に強打をさせず、ラリー戦に持ち込もうという意図か。
…私の体力が限界に近いことを見抜いている…?あるいは、私の異端に対し、今度は彼女自身のラリーで流れを取り戻そうとしているのか…。
私は、ラケットを裏ソフトの面のまま、ストップの構えに入る。
桜選手は、私が再びネット際の小技、あるいは変化球を仕掛けてくることを警戒し、僅かに前傾姿勢を強めた。
私が繰り出したのは、モーションの大部分を共通化させながら、インパクトの瞬間にラケット面を僅かに立て、ボールの赤道付近を、回転をかけずに押し出すのではなく、むしろボールの勢いを殺すように、スーパーアンチの面に持ち替えて触れた。
ストップとして処理されたボールは回転を失い、ナックルボールとなって、先ほど私が超低空ナックルサーブを決めたのと同じ、桜選手のバックサイド、エンドラインぎりぎりへと、まるで置き去りにするかのように、しかし今度は短く低く滑り込んだ。
桜選手はその予測外のコースと球質に、一瞬反応が遅れた。
しかし、彼女の反応速度は驚異的だ。彼女は、体勢を崩しながらも、その死んだようなボールを生き返らせるようにバックハンドで拾い上げ、深いループドライブで私のバックサイドへと繋いできた。
…やはり、ラリーに持ち込もうとしている。ならば、こちらはストップで、あなたの思考を上回ってみせる。
私は、そのループドライブに対し、再びスーパーアンチの面で、今度はボールの側面下部を、ラケット面を立てるのではなく、むしろ少し被せるようにして、そして押し出すのではなく引き込むような、極めて短いタッチで触れる。
ボールは、ネットの白帯の上をするりと舐めるように通過し――しかし、惜しくも僅かにサイドラインを割った。
静寂 4 - 3 青木
…今のストップ、精度が僅かに狂った。だが、彼女の思考に「次は何が来るのか」というさらなる混乱の種を蒔くことはできたはずだ…。
ベンチのあかねさんが、固唾をのんで私を見守っている。彼女のノートには、私のこの奇策とも言える戦術が、どのように記録されているのだろうか。
桜選手は、今の私のミスにも表情を変えない。
彼女は、ただ淡々と、次のサーブに集中している。彼女が放ったのは、再びナックル性のロングサーブ、今度は私のバックサイドだ。
私は、同じようにストップの構え。
そしてインパクトの瞬間、ラケットを裏ソフトの面に持ち替え、ボールの側面を薄く捉える、強烈なサイドスピンを加えながら、桜選手のフォアサイドネット際へ、鋭く曲がる横回転のストップを放った。
桜選手はそのボールの曲がりに反応し、体を伸ばして何とかラケットに当てたが、返球は大きくサイドを切れてアウトになった。
静寂 5 - 3 青木
観客席の部長が「よしっ!」と小さく叫ぶのが聞こえた。
…同じように見えるモーションから繰り出される、無限に近い球質の変化。
…それは、相手の「当たり前」を崩し、思考を混乱させ、そして勝利を手繰り寄せるための、私の異端の研鑽の成果だ…。
桜選手の絶対的な集中力に対し、私のストップ戦略が、再びその牙を剥き始めていた。
この最終セット、まさに魂を削り合うような決戦となっていた。
そして、私自身の体力と精神力もまた、この極限の戦いの中で、確実に削り取られていた。
私は、再びあの下回転をかけるかのような、大きなテイクバックのモーションに入る。
桜選手の全神経が、私のラケット面、手首の動き、そしてトスの高さに集中しているのが、肌で感じられる。
このモーション…今の彼女は、ここから繰り出されるであろう無数の変化…ナックル、スピン、長短、そしてラバーの持ち替え…。
…その全てを警戒し、対応しようと待ち構えている。
だが、彼女の思考は、最終的にはラリー戦での優位性を求めるはずだ。
彼女が最も得意とし、そして私が最も警戒すると分析しているであろう、4球目での決定打を…。
私は、下回転サーブを放った。それは、桜選手が予測しうる変化の一つ。
コースは彼女のバックサイド深く。
桜選手は、それを的確にツッツキで私のフォアサイドに、やや山なりだが回転量の多いボールで返球してきた。
私の3球目攻撃を誘い、そして彼女自身の4球目攻撃に繋げるための、計算された布石だ。
私は、そのボールに対し、裏ソフトのフォアハンドでドライブをかける。
回転を重視した、安定したループドライブ。桜選手は、それを待っていたかのように、バックサイドに回り込み、フォアハンドで強烈なカウンタドライブを、私のバッククロスへと叩き込んできた。
彼女の4球目攻撃。
だが、私はその桜選手の4球目を予測していた。いや、予測していたというよりは、彼女がそこで攻撃してくるという状況を、私がこの3球目のループドライブで作り出したのだ。
私は、その強烈なカウンターに対し、体を僅かに沈め、裏ソフトの面で、ボールの威力を殺しながらも、桜選手のフォアサイド、ネット際に絶妙なコントロールで、まるでカウンターのような鋭いストップを決めた。
それは、彼女の4球目攻撃のタイミングと体勢を完全に外し、その予測と準備を完全に無に帰す、私の「読み勝ち」の一打。
静寂 6 - 3 青木
桜選手の表情に、明確な「読み負けた」という悔しさが滲んだ。私の仕掛けた心理戦が、彼女の絶対的な自信を、ほんの少しだけ揺るがせたのかもしれない。
私は、再び同じ、下回転をかけるかのような大きなテイクバックのモーションに入る。
桜選手は、先ほどの私のカウンター気味のストップを警戒し、今度はネット際の処理と、その後の私の攻撃の両方を意識した、やや中途半端な構えになっている。
私は、ナックルショートサーブを、桜選手のフォア前、ネット際にコントロールしようとした。しかし――。
…まずい…!
その瞬間、私の身体を、これまで感じたことのないほどの深い疲労感が襲った。
この精神をすり減らすような激しい戦いで、私の体力、そして集中力は、既に限界を超えていたのかもしれない。
インパクトの瞬間に、私の手首から、そして指先から、ほんの僅かに、しかし致命的に力が抜け、コントロールが狂う。
私が放とうとしたナックルショートサーブは、回転もコースも甘く、まるで桜選手に「打ってください」と言わんばかりの、絶好のチャンスボールとなって、彼女のフォアサイドへと力なく飛んでいった。
桜選手は、そのあまりにも甘いサーブを見逃さない。
彼女の反応は、コンマ数秒の遅れもなく、獣が獲物に飛びかかるように、鋭く台に踏み込む。
そして、コンパクトながらも全身の力を込めたフォアハンドスマッシュが、私のコートのオープンスペースへと、まるで杭を打ち込むかのように突き刺さった。
私は、そのボールの軌道を、ただ目で追うことしかできない。
静寂 6 - 4 青木
…身体的限界…私の分析モデルにおいて、最も予測が困難で、そして最も致命的な変数…。
…ここまでか…。
その瞬間だった。
「タイムアウト、お願いします!」
ベンチからあかねさんの切迫した、しかし凛とした声が、審判と、そして体育館全体に響き渡った。
…タイムアウト、試合に集中するあまり、それを忘れてしまっていた。
私は、ゆっくりとあかねさんの方を見る。彼女は、私の異変を、私の限界を、誰よりも早く察知していたのだ。
その瞳には、涙こそ浮かんでいないが、私への深い心配と、そして何としても私を支えようという、強い意志の色が浮かんでいた。
審判が、タイムアウトを認める。桜選手は、訝しげな表情でこちらを見ている。
私は、重い足取りで、あかねさんが待つベンチへと向かった。




