予測不能の魔女
セットカウント 静寂しおり 2 - 2 青木桜
インターバルは、私にとって、深い絶望の淵から這い上がるための、静かな自問自答の時間だった。あかねさんの涙、部長の檄、そして未来さんの静かな眼差し。それらが、私の凍てついた心の奥底で、何かを微かに揺り動かしたのかもしれない。私はコートに戻る。もう、第4セットのような無様な姿を晒すつもりはない。敗北という二文字は、私の思考ルーチンから完全に排除された。私の「異端」は、まだ終わらない。そして、それは今、新たな形へと進化を遂げようとしていた。
コートの中央で桜選手と向き合う。彼女の纏う「フロー状態」のオーラは依然として強力で、その瞳は絶対的な集中力に満ちている。だが、今の私の心には、第4セットのような絶望はない。あるのは、ただ冷徹なまでの勝利への渇望と、それを実現するための、研ぎ澄まされた、そしてより危険な光を帯びた思考だけだ。
私は、あえて第4セットの終盤に見せた、あの虚無感を漂わせた雰囲気を偽装する。俯き加減で、どこか投げやりな印象を与えるような立ち姿。桜選手の瞳に、ほんのわずかな油断――あるいは「この静寂しおりは、もう心が折れている」という確信にも似た色が浮かんだのを、私は見逃さなかった。
(…あなたのその僅かな油断が、この最終セットにおける最初の亀裂となる、青木桜)
私は、下回転をかけるかのような、大きなテイクバックからサーブモーションに入る。桜選手は、第4セットの私の自滅的なプレイの残像から、力任せの単調なサーブか、あるいは回転量の不安定なサーブを予測しているかもしれない。
しかし、インパクトの瞬間、私は全ての力を抜き、手首の角度を微調整する。そして放たれたのは、超低空のナックルショートサーブ。ボールはネットすれすれを、まるで意思を持たずに漂うかのように、桜選手のフォア前、最も処理しにくいネット際に、絶妙なコントロールで送り込まれた。
桜選手は、私のその偽装した雰囲気とモーション、そしてそこから繰り出されたボールの「死に方」――そのあまりのギャップに完全に虚を突かれ、反応が一瞬遅れた。慌てて前に踏み込み、ラケット面を合わせようとするが、ボールは既に彼女のコートで低く、そして静かに二度バウンドしていた。
静寂 1 - 0 青木
エース。体育館が、一瞬の静寂の後、私のその意表を突く一打に、今度は困惑とも驚嘆ともつかない、複雑などよめきを見せる。
ベンチのあかねさんが、信じられないといった表情で、しかしその瞳には確かな希望の光を灯して私を見つめている。
観客席の部長は、腕を組み直し、何が起こったのかを反芻するかのように眉間に皺を寄せている。「(なんだ…今のサーブは…?第4セットのあの姿は、まさか…演技だったとでも言うのか…?いや、それにしては、あの時のしおりは…。だが、今のあいつは…そうだ、昔、卓球用品店の店長と冗談で話したことがあったな。『静寂しおり、そのうち予測不能の魔女なんて呼ばれるんじゃねえか?』って…。まさか、それが、こんな形で現実になるなんてな…!)」彼の脳裏に、過去の何気ない会話が、鮮烈な現実感を伴って蘇っていた。
私は、ゆっくりと顔を上げ、桜選手を真っ直ぐに見据える。先ほどまでの虚無的な雰囲気は、もはやそこにはない。私の瞳の奥には、まるで氷の下で燃える炎のような、冷たく、しかしどこまでも強靭な意志の光が宿っていた。
桜選手が、私のその変貌に息をのんだのが分かった。彼女のフロー状態の集中力に、ほんのわずかな、しかし確実な亀裂が入る。
私は、再び同じ、下回転をかけるかのような大きなテイクバックのモーションに入る。桜選手は、今度は先ほどのナックルショートを警戒し、無意識のうちにやや前がかりの体勢になっている。
(あなたの思考は、今、私のサーブの「短長」に囚われている。だが、私の変化はそれだけではない…ボールにあなたの視線が集中する、その一瞬…)
インパクトの直前、相手の視線が落下するボールに集中する僅かな隙を突き、私の右手首が、常人には感知できないほどの速さで微かに動いた。ラケットを持ち替えたのだ。そして、同じモーションから、今度は強烈なバックスピン(下回転)をかけたショートサーブを、桜選手のバックサイド、ネット際に送り込んだ。
桜選手は、ナックルショートを予測していたため、フラットに近いラケット面を合わせようとする。しかし、裏ソフトから放たれた、強烈なバックスピン――ボールの勢いは並み程度、しかし回転が強烈な球質に、彼女のラケットは的確に対応できない。彼女のレシーブは、回転に負け、力なくネットにかかった。
静寂しおり 2 - 0 青木桜
再び、エース。観客席から、今度は明確な驚嘆の声が上がる。桜選手の顔に、初めて「理解できない」という、フロー状態とは相容れない感情が浮かんだのを、私は見逃さなかった。それは、彼女の絶対的な自信を揺るがすのに十分な一撃だったはずだ。
(同じモーション、異なるラバー、異なる回転、異なるコース…これが、私の新たな「異端」。私の「予測不能のサーブ」。あなたのフロー状態ですら、これには対応できないはずだ…青木桜。この最終セット、あなたの知らない静寂しおりを、存分に見せてあげる…)
私の心は、冷たく、そして静かに、しかし確かな勝利への確信と、そして相手を完全に支配するという、どこか愉悦にも似た感情に満たされ始めていた。