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異端の白球使い  作者: R.D
県大会 女子決勝

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悪夢を彷徨うもの

 セットカウント 静寂 2 - 1 青木


 第3セットの激闘の末の勝利。


 しかし、その勝利は私の心に安堵ではなく、むしろ青木桜という存在の底知れない強さへの戦慄と、そして「偶然」という不確定要素に左右されたことへの言いようのない焦燥感を刻み付けていた。


 インターバルでのあかねさんの懸命な励ましの言葉も、今の私の凍てついた心には届かない。


 私は、ただ、勝たなければならない。その歪んだ執念だけを胸に、第4セットのコートに立った。


 桜選手は、第3セット終盤の動揺など微塵も感じさせず、再びあの絶対的なまでのフロー状態を纏っている。


 その静かで深い集中力は、まるで私という存在すらも飲み込んでしまいそうなほどの圧力を放っていた。


 …勝つ。そのためなら、私は…。


 私の思考は、もはや冷静な分析ではない。


 ただ、勝利という結果だけを求める、剥き出しの本能に近いものへと変質していた。


 桜選手の放ったサーブは、私のバックサイドを鋭く襲う。


 私は、アンチラバーの面を構え、第3セットの終わりに私を勝利へと導いた、あの「エッジイン」の再現を、半ば無意識に、そして病的なまでに渇望していた。


 ラケットにボールが触れる。だが、その感触は鈍く、ボールは力なくネットを越え、自陣のコートに落ちた。


 …違う。これでは、ない…。


 続くポイントも、私のプレイは精彩を欠いた。


 桜選手が繰り出さす正確無比な打球に対し、私の変化は通用せず、焦りから繰り出す強打はことごとくアウトになるか、あるいは彼女の鉄壁のブロックに阻まれた。


 あかねさんの声援が聞こえる。だが、その言葉は、まるで厚い水膜を隔てた向こう側から響いてくるようで、私の心には届かない。


 部長の、未来さんの視線も感じる。


 だが、今の私には、彼らの存在すらも、遠い世界の出来事のようにしか感じられなかった。


 何かが…おかしい。私の身体が…私の思考が…まるで私のものではないかのようだ…。


 私は何かに取り憑かれたように、再び「エッジイン」を狙った。スーパーアンチで、ネット際に、台の端を。


 だが、ボールは無情にもネットにかかる。


 また、失敗。


 その瞬間ぷつり、と。私の意識の中で、何かが途切れる音がした。


 どれくらいの時間が経ったのだろうか。


 私の意識は、まるで濃い霧の中を彷徨っているかのようだった。


 目の前の白いボールの軌跡だけが、辛うじて現実との繋がりを保っている。


 だがそれすらも、時折霞んで見える。


 桜選手の放つ打球の衝撃が、ラケットを通じて鈍く腕に伝わる。


 床をシューズが擦る音。


 自分の荒い呼吸。


 それ以外の記憶が、曖昧だ。


 私は、ただ機械のようにラケットを振っている。


 そこに戦術も分析も、そして感情すらも存在しない。


 ただ、プログラムされた動作を繰り返しているだけ。


 時折、まぐれのような強打が桜選手のコートに突き刺さることがあった。


 その瞬間だけ、私の心の奥底で、何かが微かに疼くような感覚があったが、それが何なのかを理解することはできない。


 あかねさんの悲痛な叫び声が、遠くで聞こえた気がした。


 部長の、怒りに震えるような声も。


 未来さんの、静かだが、どこか憐れむような溜息も。


 だが、それらは全て、分厚いガラスの向こう側の出来事。


 私の世界は、ただ、白いボールと、それを打ち返す相手――青木桜という圧倒的な存在と、そして私自身の、底なしの虚無だけで構成されていた。


 ふと、何かの拍子に、私の意識が急速に浮上した。


 ボールがコートの隅を転がり静止する。


 審判の、どこか事務的なコール。


 そして、私の目に飛び込んできたのは、スコアボードに映し出された、信じられない数字だった。


 静寂 3 - 10 青木


 …何だ…これは…?いつの間に、こんな点差に…?私は…私は、何をしていた…?


 全身から、急速に血の気が引いていくのを感じた。


 指先が冷たい。


 桜選手が、静かにサーブの構えに入る。セットポイント。


 いや、彼女にとっては、もはや消化試合の一点に過ぎないのかもしれない。


 彼女から放たれたサーブは、私のフォアサイドを鋭く襲う。


 私は、ただ反射的にラケットを出した。


 ボールは、ラケットの端に虚しく当たり、力なくネットを越えることなく、私の足元へと転がった。


 静寂 3 - 11 青木


 セットカウント 静寂しおり 2 - 2 青木桜。


 私は、茫然と、その場に立ち尽くしていた。身体の感覚がない。


 思考も、停止している。何が起こったのか、理解できない。


 ただ心の奥底で、まだ消えない勝利への異常なまでの執着だけが、まるで消し炭のように、微かに燻り続けているのを感じていた。


 負けた…このセット…私の全てが…否定された…。だが…まだだ…まだ、終わってはいない…!終わらせない…!


 私の「異端の白球」の物語は、今、最も暗く、そして最も危険な分岐点を迎えようとしていた。

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