インターバル(3)
セットカウント 静寂しおり 2 - 1 青木桜
第3セットを11-9というスコアで私は取った。だが、その現実は、私の心に何一つとして光明をもたらしてはいなかった。むしろ、あの最後の「偶然のエッジイン」という結末は、青木桜という存在の底知れない強さと、彼女が纏っていたあの異様なまでの「フロー状態」の前に、私の卓球がいかに無力であったかを、残酷なまでに突きつける結果となったのだ。私の計算も、私の技術も、そして私の「異端」すらも、あの絶対的な力の奔流の前では、砂上の楼閣に過ぎなかった。
ベンチへと引き上げる私の足取りは、まるで鉛を引きずるかのように重い。全身を覆う疲労感は、単なる肉体的なものではない。それは、魂が削り取られるような、もっと根源的な消耗だった。勝利という結果とは裏腹に、私の内なる「静寂な世界」は、今や深い絶望の闇に覆われようとしていた。
「しおりっ!やったね!本当に、本当にすごかったよ!あの粘り、そして最後のポイント…!見てるこっちが、心臓止まるかと思ったんだから!」
あかねさんが、興奮と安堵がない混ぜになった表情で駆け寄ってくる。その手には、いつものように冷たいスポーツドリンクと、汗を拭うためのタオルが握られている。彼女の純粋な喜びと、私への絶対的な信頼が、その瞳から溢れ出ている。
だが、今の私には、その輝きが眩しすぎた。そして、痛いほどに、虚しかった。
私はかろうじてドリンクを受け取り、震える指先でその冷たさを確認する。しかし、それを口に含む気力すら湧いてこない。
(あかねさん…。あなたのその純粋な善意も、今の私には、何の意味もなさないのかもしれない。ただの、空虚な音の羅列のようにしか、私の耳には届かない…)
「しおり…?大丈夫…?顔、真っ青だよ…」
私の異様なまでの沈黙と、生気のない表情に、あかねさんの声のトーンが不安の色を帯びる。彼女の大きな瞳が、心配そうに私を覗き込んでいる。
(心配…?そうか、私は今、そんな表情をしているのか。だが、それも当然だ。私の全てが、私の「異端の白球」が、あの青木桜の前に、完全に破壊されたのだから…)
フロー状態…あの絶対的なまでの集中力と、最適化されたパフォーマンス。私の分析も、計算も、そして私がこれまで積み上げてきた全ての「異端」すらも、まるで薄紙を剥ぐように、いとも簡単に見透かされ、対応された。私のサーブは威力を失い、変化球は的確に処理され、模倣という名の心理攻撃すら、彼女の揺るぎない精神の前では意味をなさなかった。
作戦メモ…あれが桜選手の手に渡っていなければ、という思考すら、もはや慰めにもならない。根本的な「力」の差を、私は見せつけられたのだ。私の卓球は、彼女の前に、完全に無力だった。
私の心の中で、何かが音を立てて軋み、そして崩れ落ちていく。それは、これまで私の卓球を支えてきた絶対的な自信か、あるいは勝利への渇望か。いや、もっと根源的な、私という存在そのものを肯定するための、最後の砦だったのかもしれない。
あの、小学三年生の「あの日」の記憶が、不意に鮮明な輪郭を持って脳裏をよぎる。周囲からの悪意に満ちた視線、孤独感、そして自分の無力さを突きつけられた、あの日の絶望。それが、今、この決勝の舞台で、形を変えて再び私に襲いかかろうとしていた。
(…ダメだ。ここで、心が折れたら…今度こそ、全てが終わる…)
私は、必死にその黒い感情の奔流に抗おうとする。だが、一度流れ込んだ絶望は、私の思考回路を蝕み、その機能を停止させようとしていた。
「しおり…?本当に、大丈夫…?」
あかねさんの声が、まるで厚いガラスを隔てた向こう側から聞こえてくるようだ。彼女の瞳には、涙が滲んでいる。それでも、彼女は必死に私を励まそうと、言葉を探しているのが痛いほど伝わってくる。
「桜選手、確かにすごく強かったけど…でも、しおりだって、最後まで諦めなかったじゃない!あの粘り、本当にすごかったんだよ!私、感動したんだから!」
彼女の言葉の一つ一つが、かろうじて私の意識の表面を撫でる。
「それに、作戦メモのことだって、もし本当に桜選手が知ってたとしても、しおりなら、きっと大丈夫だって、私、信じてる!しおりの卓球は、誰にも真似できない、本当にすごいものなんだから!あの、YGサーブとか、部長先輩のサーブの真似とか…私、見てて本当にワクワクするんだよ!」
彼女の必死の形相。溢れ落ちる涙。
(あかねさん…。あなたは、いつもそうだ。私のことを、私の卓球を、何の疑いもなく信じてくれる。その純粋さが、時に私を救い、そして時に、私をさらに深い孤独へと追いやる…)
「だから…だから、諦めないで、しおり!私がいる!部長先輩も、未来さんも、きっとみんな応援してる!しおりの「異端」は、絶対に負けないって、私、信じてるから!」
あかねさんの言葉は、熱を帯び、私の心の壁を執拗に叩き続ける。だが、今の私の心は、厚い氷壁に覆われたように、その熱を感じることができない。
(諦めない…?何をだ?私の卓球は、既に青木桜の前に敗北した。この第3セットの結果は、単なる偶然の産物。再現性のない、確率論的エラーに過ぎない。次のセット、彼女が再びあの「フロー状態」に入れば、私はまた、なすすべもなく打ちのめされるだけだ。それが、論理的な帰結だ…)
観客席の一角では、部長が険しい顔で腕を組み、コート上の異様な雰囲気を察知しているだろう。「しおりの奴…第3セットは本当に紙一重だったな…だが、よくぞ取った!しかし、桜選手のあの集中力…尋常じゃねえ。あいつ、次のセット、本当に大丈夫なのか…?まるで、何かに追い詰められているような、そんな顔をしてやがる…」彼の内心は、期待と不安が激しく交錯しているに違いない。
その隣で、未来さんは静かに目を閉じているかもしれない。あるいは、その深淵のような瞳で、私と桜選手、そしてこの試合全体の流れを、彼女自身の「異質」な分析モデルで解析しているのだろうか。「…静寂さんの纏う靄の色が、先ほどとは明らかに異質です。深い絶望と、しかしそれを覆い隠すかのような、極めて純粋で、そして危険なほどの執念…。これは、非常に興味深い精神状態ですね…。彼女の「異端」が、この極限状況で、どのような変容を遂げるのか…」そんな冷静な分析が、彼女の頭の中では展開されているのかもしれない。
私は、あかねさんの涙を拭うこともできず、ただ虚空を見つめていた。
(…負ける。このままでは、私は確実に負ける。私の全てが否定される。それは、許容できない。絶対に、許容できない…)
絶望の淵で、私の思考は、奇妙なまでにクリアになっていくのを感じた。希望ではない。光でもない。それは、もっと暗く、もっと冷たい、しかし純粋なまでの「何か」
(勝たなければならない。何故?理由など、もはやどうでもいい。理屈も、分析も、計算も、あの「フロー状態」の前では意味をなさない。ならば、私もまた、それらを超越した領域で戦うしかない…)
それは、勝利への「執念」。いや、もっと正確に言えば、敗北への「拒絶」。私の存在そのものを賭けた、最後の抵抗。
(青木桜…あなたが私に絶望を与えた。ならば、私は、その絶望を燃料にしてでも、あなたを打ち破る。私の全てが否定されたとしても、この勝利だけは、誰にも渡さない…!)
私の心の奥底で、冷え切っていたはずの何かが、再び、しかし歪んだ形で燃え上がり始める。それは、熱い炎ではない。氷のように冷たく、しかし全てを焼き尽くすかのような、青白い炎。
「…ええ、あかねさん。」
私は、ようやく顔を上げ、あかねさんを見つめ返した。その瞳には、もう涙はなかった。ただ、底なしの闇と、その奥で妖しく光る、異常なまでの執着だけが浮かんでいた。
「あなたの言う通りかもしれませんね。まだ…全てが終わったわけでは、ありませんから。」
私の声は、いつものように平坦だった。しかし、その奥には、これまでの私からは考えられないほどの、冷たく、そして狂気にも似た決意が込められていた。
「私は…私の卓球をするだけです。勝利という結果を、この手で掴み取る、ただ、それだけです…」
インターバル終了を告げるブザーが、間もなく鳴り響く。私は、ゆっくりと立ち上がり、コートへと向かう。その足取りは、先ほどまでの重さはない。だが、それは希望に満ちたものでもない。ただ、勝つことだけを目的とした、機械のような、正確な動き。
私の「異端の白球」は、今、新たな、そして最も危険な局面へと突入しようとしていた。絶望の底で見つけた、勝利への異常なまでの執着。それが、私をどこへ導くのか、私自身にも、もう分からなかった。