勝利への欲求
セットカウント 静寂 2 - 1 青木
第3セットを11-9というスコアで私は取った。
だが、その現実は、私の心に何一つとして光明をもたらしてはいなかった。
むしろ、あの最後の、偶然のエッジインという結末は、青木桜という存在の底知れない強さと、彼女が纏っていたあの異様なまでの「フロー状態」の前に、私の卓球がいかに無力であったかを、残酷なまでに突きつける結果となったのだ。
私の計算も、私の技術も、そして私の「異端」すらも、あの絶対的な力の奔流の前では、砂上の楼閣に過ぎなかった。
ベンチへと引き上げる私の足取りは、まるで鉛を引きずるかのように重い。
全身を覆う疲労感は、単なる肉体的なものではない。それは、魂が削り取られるような、もっと根源的な消耗だった。
勝利という結果とは裏腹に、私の内なる「静寂な世界」は、今や深い絶望の闇に覆われようとしていた。
「しおりちゃんっ!やったね!本当に、本当にすごかったよ!あの粘り、そして最後のポイント…!見てるこっちが、心臓止まるかと思ったんだから!」
あかねさんが、興奮と安堵がない混ぜになった表情で駆け寄ってくる。
その手には、いつものように冷たいスポーツドリンクと、汗を拭うためのタオルが握られている。
彼女の純粋な喜びと、私への絶対的な信頼が、その瞳から溢れ出ている。
だが、今の私には、その輝きが眩しすぎた。そして、痛いほどに虚しかった。
私はかろうじてドリンクを受け取り、震える指先でその冷たさを確認する。
しかし、それを口に含む気力すら湧いてこない。
…あかねさん…。あなたのその純粋な善意も、今の私には、何の意味もなさないのかもしれない。ただの、空虚な音の羅列のようにしか、私の耳には届かない…。
「しおりちゃん…?大丈夫…?顔、真っ青だよ…」
私の異様なまでの沈黙と、生気のない表情に、あかねさんの声のトーンが不安の色を帯びる。
彼女の大きな瞳が、心配そうに私を覗き込んでいる。
…心配…?そうか、私は今、そんな表情をしているのか。だが、それも当然だ。私の全てが、私の「異端の白球」が、あの青木桜の前に、完全に破壊されたのだから…。
フロー状態…あの絶対的なまでの集中力と、最適化されたパフォーマンス。
私の分析も、計算も、そして私がこれまで積み上げてきた全ての「異端」すらも、まるで薄紙を剥ぐように、いとも簡単に見透かされ、対応された。
私のサーブは威力を失い、変化球は的確に処理され、模倣という名の心理攻撃すら、彼女の揺るぎない精神の前では意味をなさなかった。
作戦メモ…あれが桜選手の手に渡っていなければ、という思考すら、もはや慰めにもならない。
根本的な「力」の差を、私は見せつけられたのだ。私の卓球は、彼女の前に、完全に無力だった。
私の心の中で、何かが音を立てて軋み、そして崩れ落ちていく。
それは、これまで私の卓球を支えてきた絶対的な自信か、あるいは勝利への渇望か。
いや、もっと根源的な、私という存在そのものを肯定するための、最後の砦だったのかもしれない。
あの、小学三年生の「あの日」の記憶が、不意に鮮明な輪郭を持って脳裏をよぎる。
周囲からの悪意に満ちた視線、孤独感、そして自分の無力さを突きつけられた、あの日の絶望。
それが、今、この決勝の舞台で、形を変えて再び私に襲いかかろうとしていた。
…ダメだ。ここで、心が折れたら…今度こそ、全てが終わる…。
私は、必死にその黒い感情の奔流に抗おうとす
。だが、一度流れ込んだ絶望は、私の思考回路を蝕み、その機能を停止させようとしていた。
「しおりちゃん…?本当に、大丈夫…?」
あかねさんの声が、まるで厚いガラスを隔てた向こう側から聞こえてくるようだ。
彼女の瞳には、涙が滲んでいる。それでも、彼女は必死に私を励まそうと、言葉を探しているのが痛いほど伝わってくる。
「桜選手、確かにすごく強かったけど…でも、しおりちゃんだって、最後まで諦めなかったじゃない!あの粘り、本当にすごかったんだよ!私、感動したんだから!」
彼女の言葉の一つ一つが、かろうじて私の意識の表面を撫でる。
「それに、作戦メモのことだって、もし本当に桜選手が知ってたとしてもしおりちゃんなら、きっと大丈夫だって、私信じてる!しおりちゃんの卓球は、誰にも真似できない、本当にすごいものなんだから!あの、YGサーブとか、部長先輩のサーブの真似とか…私、見てて本当にワクワクするんだよ!」
彼女の必死の形相。溢れ落ちる涙。
…あかねさん…。あなたは、いつもそうだ。私のことを、私の卓球を、何の疑いもなく信じてくれる。
…その純粋さが、時に私を救い、そして時に、私をさらに深い孤独へと追いやる…。
「だから…だから、諦めないで、しおりちゃん!私がいる!部長先輩も、未来さんも、きっとみんな応援してる!しおりちゃんは、絶対に負けないって、私、信じてるから!」
あかねさんの言葉は、熱を帯び、私の心の壁を執拗に叩き続ける。
だが、今の私の心は、厚い氷壁に覆われたように、その熱を感じることができない。
諦めない…?何をだ?私の卓球は、既に青木桜の前に敗北した。この第3セットの結果は、単なる偶然の産物。再現性のない、確率論的エラーに過ぎない。
…次のセット、彼女に私はまた、なすすべもなく打ちのめされるだけだ。それが、論理的な帰結だ…。
私は、あかねさんの涙を拭うこともできず、ただ虚空を見つめていた。
…負ける。このままでは、私は確実に負ける。私の全てが否定される。それは、許容できない。絶対に、許容できない…。
絶望の淵で、私の思考は、奇妙なまでにクリアになっていくのを感じた。
希望ではない。光でもない。それは、もっと暗く、もっと冷たい、しかし純粋なまでの何か。
…勝たなければならない。何故?理由など、もはやどうでもいい。
理屈も分析も計算も、あの青木桜前では意味をなさない。ならば、私もまた、それらを超越した領域で戦うしかない…。
それは勝利への執念、いや、もっと正確に言えば敗北への拒絶。
私の存在そのものを賭けた、最後の抵抗。
…青木桜…あなたが私に絶望を与えた。ならば、私は、その絶望を燃料にしてでも、あなたを打ち破る。私の全てが否定されたとしても、この勝利だけは、誰にも渡さない…。
私の心の奥底で、冷え切っていたはずの何かが、再び、しかし歪んだ形で燃え上がり始める。
「…ええ、あかねさん」
私は、ようやく顔を上げ、あかねさんを見つめ返した。その瞳には、もう涙はなかった。
ただ、底なしの闇と、その奥で妖しく光る、異常なまでの執着だけが浮かんでいた。
「あなたの言う通りかもしれませんね。まだ…全てが終わったわけでは、ありませんから」
私の声は、いつものように平坦だった。
しかし、その奥には、これまでの私からは考えられないほどの、冷たく、そして狂気にも似た決意が込められていた。
「私は…敗北するわけにはいかない。勝利という結果をこの手で掴み取る、ただ、それだけです…」
インターバル終了を告げるブザーが、間もなく鳴り響く。私は、ゆっくりと立ち上がり、コートへと向かう。その足取りは、先ほどまでの重さはない。
だが、それは希望に満ちたものでもない。ただ、勝つことだけを目的とした、機械のような、正確な動き。
私の「異端の白球」は、今、新たな、そして最も危険な局面へと突入しようとしていた。
絶望の底で見つけた、勝利への異常なまでの執着。それが、私をどこへ導くのか、私自身にも、もう分からなかった。




