フロー状態
彼女の纏う空気が一変したのを、私は肌で感じ取った。
それまでの焦りや困惑、あるいは闘志といった、人間的な感情の揺らぎが、まるで凪いだ水面のように消え失せている。
代わりに、研ぎ澄まされた刃のような、絶対的な集中力だけが彼女を支配していた。
その瞳は、もはや私個人を見ているのではない。
卓球台、ボール、空間、その全てを包み込むかのような、静かで、しかし底知れない深淵を湛えていた。
…これは…!第2セット終盤の彼女の適応とは、明らかに質が異なる。この感覚…本で読んだことのある『フロー状態』…。
極度の集中と没入が生み出す、最高のパフォーマンス…。所謂ゾーン状態というものだ。
私自身、このような状態を明確に意識して経験したことはない。
仮にあったとしても、それは無意識下での反応の最適化であり、自覚的なものではなかったはずだ。だが、今の青木桜は…違う…!
静寂 7 - 3 青木
桜選手が放ったサーブは、これまでのどのサーブとも異なっていた。モーションは変わらない。
しかし、そこから放たれたボールは、私の予測をコンマ数秒単位で裏切る、絶妙なタイミングと、これまで見たことのないほどの鋭い回転。
そして寸分の狂いもないコースで、私のバックサイド深くに突き刺さった。
それは、もはや技術というよりも、芸術に近い領域の一打。
私は、そのサーブに対し、反応することすらできない。
静寂 7 - 4 青木
観客席が、息をのむような静けさに包まれる。
ベンチのあかねさんも、何が起こったのか理解できないといった表情で、ただコートを見つめている。
今のサーブ…。回転、スピード、コース。その全てが完璧。そして、何よりも、あのタイミング…私の思考の、まさに死角を突いてきた…!
私の分析が、目の前の現象に対し、初めて明確なエラーを示し始めていた。
桜選手は、表情一つ変えない。
ただ、その全身から放たれるプレッシャーは、先ほどまでとは比較にならないほど強く、そして純粋だ。
彼女は、再び同じモーションからサーブを放つ。
今度は、私のフォアサイドへ、先ほどとは全く逆の回転、しかし同じように鋭く、そしてコースぎりぎりを狙った一打。
私は、そのサーブに対し、必死にラケットを合わせる。
しかし、ボールは私のアンチラバーの特性すらも無効化するかのように、ラケット面で滑り、大きくサイドアウトした。
静寂 7 - 5 青木
…二連続エース。それも、私の予測を完全に超えたサーブで…。これが、フロー状態に入った青木桜の力…。私の「異端」が、彼女のこの純粋なまでの「力」の前に、通用しなくなるかもしれない…。
私の背筋を、これまで感じたことのない種類の戦慄が走った。それは、敗北への恐怖ではない。
未知なる強者との遭遇、そして、自分自身の限界が試されることへの、ある種の武者震いに近いものだったのかもしれない。
私のリードは2点。だが、目の前の桜選手の纏う空気は、先ほどまでのそれとは比較にならないほど研ぎ澄まされ、そして純粋なまでの集中力に満ちている。
彼女の「フロー状態」…それが、この試合の最大の変数として、今、私の目の前に立ち塞がっていた。
…今の彼女に、小手先の変化は通用しない。ならば…私の持つ、最も基本的な、しかし最も精密なコントロールで、彼女の予測の隙間を突く…。
私は、回転を極限まで抑えたナックル性のショートサーブを、桜選手のフォア前、ネット際に絶妙なコントロールで送り込んだ。
これまでならば、このサーブは彼女の判断を遅らせ、甘い返球を誘うことができたはずだ。
しかし、フロー状態の桜選手は、そのサーブの僅かな軌道の変化すらも見逃さない。
彼女は、まるで水面を滑るかのように静かに、しかし電光石火の速さで前に踏み込み、コンパクトなスイングのフォアハンドフリックで、私のバックサイドを鋭く射抜いた!その打球は、回転、スピード、コース、その全てが完璧。
静寂 7 - 6 青木
…通用しない。今の彼女には、私のこれまでの「異端」が、まるで児戯のように見えているのかもしれない…!私の分析が、彼女の「フロー状態」の速度に追いつけない…。
背筋を冷たい汗が伝う。だが、私の心は、まだ折れていない。
私は、さらに思考を巡らせ、今度はYGサーブのモーションから、強烈な下回転と横回転を混ぜた、これまで見せていない複雑なサーブを放った。桜選手の予測の裏をかく、新たな一手。
だが、桜選手は、その初見のはずのサーブに対しても、まるで全てを知っていたかのように、完璧なタイミングとラケット角度で対応してきた。
彼女のバックハンドから放たれたドライブは、私のサーブの複雑な回転を完全に無効化し、強烈なトップスピンとなって私のフォアサイド深くに突き刺さる。
私は懸命に飛びつくが、ボールはラケットを掠め、無情にもコートの外へと弾かれた。
静寂 7 - 7 青木
ついに同点。観客席が、桜選手の信じられないような反撃に、どっと沸く。
ベンチのあかねさんが、祈るような表情で私を見つめているのが分かる。
部長も「しおり、踏ん張れ!」と叫んでいる。
未来さんは…静かに、しかしその瞳の奥に強い光を宿らせ、この異様なまでの戦況を見つめているのだろうか。
…まずい。完全に流れを持っていかれた。私の分析が、彼女の「フロー」に追いつけない…!
私の「異端」が、彼女の純粋なまでの「力」の前に、無効化されようとしている。




