予測の外側
インターバルが終わり、私は再びコートへと足を踏み入れた。
セットカウント2-0と私がリード。
しかし、第2セット終盤で見せた桜選手の適応能力は、私の脳裏に警鐘として刻まれている。
この第3セット、彼女は必ず何かを変えてくるはずだ。
そして、私もまた、彼女の予測のさらに先を行く必要がある。私の「異端」は、まだ進化の途上なのだから。
ベンチのあかねさんは、固唾を飲んで私を見守っている。
その瞳には、第2セットの勝利への喜びと、しかしこの第3セットへの緊張感が混じり合っている。
観客席の部長と未来さんも、この勝負の行方を鋭い視線で見つめているだろう。
…第3セット、初球。ここで、彼女の思考に新たなノイズを送り込む…、この一打で…。
私は、ボールを高く、体育館の照明に届かんばかりにトスを上げた。
ハイトスサーブ。これまで、この大会では見せていないサーブだ。
落下してくるボールの、ほんの一瞬のタイミングを捉え、ラケットを鋭く振り抜く。
放たれたボールは、強烈な下回転と、ほんのわずかな横回転を帯び、低い弾道で、桜選手のフォアサイド、ネット際に、まるで吸い込まれるようにして突き刺さった。
桜選手は、その異様な高さのトスからの、予測不能な落下点と回転の変化に、全く反応できなかった。
彼女の体は、その場に釘付けになったかのように動けない。ラケットを出すことすらできず、ボールは静かにツーバウンドした。
静寂 1 - 0 青木
体育館が、一瞬の静寂の後、小さなどよめきに包まれる。
ハイトスサーブ…成功。この高さからの落下エネルギーは、ボールの回転とスピードに予測不能な変化を生み出す。そして何よりも、相手のタイミングを完全に狂わせるための「視覚的なノイズ」となる…。
ベンチのあかねさんが、小さく「やった!」と声を上げているのが見えた。
私は、もう一度、同じようにボールを高くトスする。
桜選手の表情に、先ほどのハイトスサーブの衝撃が色濃く残っているのが見て取れた。
…あなたの対応力は高い。だが、私の「異端」は、一つの技だけで終わるほど単純ではない…。
再びハイトスサーブ。しかし今度は、インパクトの瞬間にラケットの角度を微妙に変え、回転の種類をナックルに近いものにし、コースも桜選手のバックミドルを狙う。
桜選手は、今度こそ惑わされまいと、必死にボールの回転を見極めようとする。
そして、なんとか食らいつき、苦しい体勢でループドライブ気味に返球してきた。
だが、そのボールは回転も浅く、山なりに私のフォアサイドへと甘く浮き上がった。
…チャンスボールだ。
私はそのボールを見逃さない。
一歩踏み込み、裏ソフトのフォアハンドで、桜選手のバックサイド、オープンスペースへと、強烈な3球目攻撃を叩き込む。
ボールはコートに突き刺さり、桜選手は反応すらできない。
静寂 2 - 0 青木
桜選手は、焦りの色が濃くなっていく。
第2セットの悪夢が、再び蘇ろうとしているのかもしれない。
…あなたの思考は、今、私の未知のサーブに支配されている。その混乱は、あなたの「王道」の精度をも狂わせる…。
サーブ権は桜選手へ。彼女は、流れを変えようと、第1セットで効果的だった質の高い下回転サーブを、私のフォアサイド深くにコントロールする。回転量が多く、バウンド後の伸びも鋭い。
…王道のサーブ、私を苦しめたという成功体験に縋る意図…だが、今の私には、それすらも分析済みのデータに過ぎない…。
私は、そのサーブに対し、ラケットをスーパーアンチの面に瞬時に持ち替えた。
そして、ボールの回転を完全に吸収するようにラケット面を合わせ、そのまま手首を柔らかく使い、ナックル性の鋭いフリックを、桜選手のバックサイド、ネット際にコントロールした。
それは、アンチラバーの特性を最大限に活かした、攻撃的なレシーブ。
彼女の作戦メモには、おそらく存在しないはずの一手だ。
桜選手は、その予測不能なアンチからのフリックに、完全に虚を突かれた。
彼女が咄嗟に出したラケットは、ボールにかすることなく空を切り、ボールは静かに台上で二度バウンドした。
静寂 3 - 0 青木
第3セット序盤、私は3連続ポイントでリードを奪い、試合の主導権を完全に握ったかに見えた。だが、常勝学園のエース、青木桜がこのまま黙っているはずがない。
桜選手はこの悪い流れを断ち切ろうと、一度大きく息を吸い込み、精神を集中させる。
そして、彼女が放ったのは、先ほどまでの下回転サーブとは異なる、強烈なサイドスピンがかかったサーブ。
ボールは私のフォアサイドを切るように鋭く曲がりながら、低い弾道で突き刺さってきた。
彼女の得意とするサーブの一つであり、その回転量とスピードは、並の選手ならレシーブすることすら困難だろう。
…サイドスピン…回転量は多い。そして、このコース。私を台から遠ざけ、体勢を崩そうという意図だ。だが、このアンチラバーの前では、その回転も意味をなさない…。
私は、そのサーブの回転とコースを冷静に見極め、ラケットをスーパーアンチの面に瞬時に持ち替えた。
そして、ボールのバウンドの頂点を正確に捉える。
桜選手の込めた強烈なサイドスピンは、無情にも私のアンチラバーに触れた瞬間、まるで深淵に吸い込まれるかのようにその勢いを失い、ナックル性の、捉えどころのない球質へと変化した。
私は、その「死んだ」ボールを、コンパクトなスイングのフォアハンドフリックで、桜選手のバックサイド、ネット際に短く、そして鋭くコントロールした。
それは、彼女が最も予測していなかったであろうコースと球質。
桜選手は、自分の得意なサーブがいとも簡単に処理され、さらに予測不能なフリックが返ってきたことに、完全に反応が遅れた。
彼女が咄嗟に伸ばしたラケットは、虚しく空を切る。ボールは静かに桜選手のコートで二度バウンドした。
静寂 4 - 0 青木
観客席から、再び大きなどよめきが起こる。
部長が「…あのアンチ、本当に厄介だな…」と苦笑いにも似た表情で呟いているのが、私の視界の端に映った気がした。
隣の未来さんは、相変わらず表情を変えずに、しかしその瞳は私のラケット面を鋭く見つめている。
「静寂さんのラバーコントロール、正確ですね…」と彼女は静かに考察しているのだろうか。
ベンチのあかねさんは、今度は声を上げることなく、ただ固唾をのんで私を見守っている。
私は、静かに次の私のサーブへと意識を切り替えた。この流れを、絶対に渡してはならない。




