違和感
部長の五球目攻撃が決まり、スコアは3-1。ここで、常勝学園のベンチから、鋭い声と共にタイムアウトが要求された。朝倉選手のコーチが、険しい表情で手を挙げている。
(…やはり、タイムアウト。朝倉選手側にとって、この第二ゲームの序盤は、想定外の展開だったはず。特に、部長のレシーブの引き出しの多さと、ラリー戦での粘り強さ。第一ゲームとは明らかに違う部長先輩の適応力に、新たな指示を与える必要が出てきたのだろう。)
コートの向こう側では、朝倉選手がコーチの元へ駆け寄り、厳しい表情で指示を受けている。一方、部長も、あかねさんが待つベンチへゆっくりと戻り、タオルで汗を拭いながら、何事か言葉を交わしている。あかねさんが、一生懸命に何かを伝え、部長先輩が力強く頷いているのが見えた。
その光景を眺めながら、私の胸の内に、形容しがたい「違和感」がじわりと広がっていくのを抑えられなかった。
(…作戦ノートの情報が、幽基さんのコーチや、おそらくは青木れいかさんを通じて、常勝学園側に流出しているのは、ほぼ確定している。それなのに…)
私の思考は、目の前の試合の熱気とは裏腹に、冷ややかに分析を続ける。
(それなのに、今日の朝倉選手の戦い方は、部長のクリティカルな弱点を的確に突き続けているとは言い難い。もちろん、レベルの高い攻防の中で、部長の甘いボールは見逃さず攻めてくるけれど、それは彼自身の地力だ。作戦ノートに記されていた、より詳細な、例えば「特定のサーブに対するレシーブの癖」や、「追い込まれた時に頼りがちなコース」といった、部長自身も気づいていないかもしれないような、より深い部分の情報が、朝倉選手の戦術に明確に反映されているようには見えない。部長の「手札」も、完全に読まれているという印象ではない。)
隣で、幽基未来さんが静かにつぶやいた。
「…常勝学園のタイムアウト。当然でしょうね。部長さんの戦術、特にレシーブの組み立てが、第一ゲームから格段に進化している。朝倉選手は、もっと部長さんのフォア側を効果的に攻めたいはずですが、そこをループドライブとチキータで巧みに防がれている。コーチは、そのあたりの修正を指示するでしょう。」
彼女の分析は相変わらず的確だが、今の私の思考は、別の方向へと深く沈み込んでいく。
(もし、青木れいかさんが情報を流出させたのなら、その情報は姉である青木桜さん…つまり、常勝学園の選手にも伝わるはずだ。そして、常勝学園のチーム全体で共有され、今日の決勝戦で、部長を徹底的に分析し、丸裸にするための材料として使われるのが自然な流れではないのか…?)
だとしたら、なぜ?なぜ、朝倉選手の戦い方に、その「徹底的な分析」の跡が薄いのだろうか。
そこまで考えた時、私の背筋を、ぞっとするような冷たいものが駆け上がった。
(……まさか。そんなことが…あり得るというのか?)
脳裏に浮かんだ一つの可能性。それは、あまりにも身勝手で、そして悪意に満ちた仮説。
(まさか、あの作戦ノートの情報は…部長先輩を含むチーム全体を利する形ではなく……私だけを、静寂しおりだけを、ピンポイントで狙い撃ちにするためだけに、使われた…? 私の試合を妨害し、私を潰すことだけが目的で、他の選手の試合、例えば今日の部長の試合には、その情報が完全な形では共有されていない…?)
そうだとしたら、辻褄が合う。私の準決勝での、あの異常なまでの情報漏洩と、今日の決勝での、部長に対するどこか中途半半端な情報利用。
それは、情報を手にした人間が、その情報を独占し、特定の目的にのみ利用している可能性を示唆している。
(私だけを…?ただ、私という「異端」を排除するためだけに…?)
その考えに至った瞬間、体育館の歓声や熱気が、遠のいていくような感覚に襲われた。勝利を目指して純粋に戦う選手たちの姿とは対極にある、見えない場所で蠢く、冷たくて粘りつくような悪意。
私は、自分の手のひらが冷や汗でじっとりと濡れているのに気づいた。
「静寂さん…?顔色が、少し悪いようですが…大丈夫ですか?」
隣から、幽基さんが心配そうに私の顔を覗き込んできた。
胸の内で渦巻く戦慄と、拭いきれない疑念。このまま一人で抱え込んでいては、思考が悪い方へばかり傾いてしまいそうだ。私は、隣に座る幽基未来さんの横顔を盗み見た。彼女は相変わらずコートの中央を見つめているが、その表情は先ほどまでとは違い、どこか思案顔にも見える。
(…幽基さんに、この考えを話してみるか…?彼女は、私の準決勝での異常な情報漏洩を、間近で見ていた。そして、今日の部長先輩の試合も、共に観戦している。彼女の、あの鋭い分析力と、そして何よりも、彼女自身が持つ「異質さ」と「孤独」が、あるいはこの常軌を逸した仮説に、何か別の光を当ててくれるかもしれない。)
意を決し、私は声を潜めて幽基さんに語りかけた。タイムアウトは、もう間もなく終わるだろう。時間はあまりない。
「…幽基さん。少し、聞いてもらってもいいですか。私の、考えなのですが…」
幽基さんは、ゆっくりとこちらに視線を向けた。その瞳は、静かで、どこか全てを見透かすような深さを持っている。
「はい、静寂さん。何でしょう?」
「作戦ノートの情報が流出したのは、ほぼ間違いありません。私の準決勝の時、幽基さんのコーチが、私のメモの内容を的確に把握していたのは、幽基さんもご存じの通りです。」
私は、一度言葉を切り、彼女の反応を窺う。幽基さんは、黙って頷いた。その表情からは、感情は読み取りにくい。
「ですが…今日の部長の試合を見ていて、私は奇妙な点にがあります。朝倉選手は確かに強いですが、部長先輩の戦術や弱点を、ノートの情報に基づいて徹底的に突いているようには、どうしても見えないのです。もし、常勝学園全体で情報が共有されているなら、もっと効果的に部長を追い詰めることができたはず…。」
私の言葉に、幽基さんの眉が、ほんのわずかに動いた気がした。
「…それで、静寂さんは、どうお考えなのですか?」促すような、静かな声。
「…これは、あくまで私の推測、というよりも…恐ろしい仮説なのですが…」私は、ごくりと喉を鳴らし、言葉を続ける。「もしかしたら、あの作戦ノートの情報は……部長やチーム全体を利するためではなく……私だけを、静寂しおりという選手個人だけを、狙い撃ちにするために、意図的に、そして限定的に使われたのではないか…と。」
そこまで一気に言うと、私は息を詰めて幽基さんの反応を待った。
体育館の喧騒が、一瞬遠のく。自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
幽基さんは、私の言葉を聞き終えても、すぐには何も言わなかった。ただ、じっと私の目を見つめている。その表情は、驚きでもなく、否定でもなく、かといって同意でもない…まるで、複雑なパズルのピースを組み合わせるように、深く、深く思考を巡らせているかのような、不思議な沈黙だった。
やがて、彼女の薄い唇が、ゆっくりと開いた。
「静寂さん…もし、その仮説が正しいのだとしたら…」
彼女の声は、いつになく真剣な響きを帯びていた。そして、その瞳の奥には、これまで見たことのないような、鋭い光が灯っていた。
まるで、彼女自身もまた、何か大きな謎の核心に触れようとしているかのように――。
タイムアウト終了を告げるブザーの音が、無情にも体育館に鳴り響いた。
部長と朝倉選手が、再びコートへと向かう。
幽基さんのあの反応は、私の心に新たな波紋を広げ、そして、彼女との間に、これまでとは違う、何か目に見えない繋がりが生まれたような予感を抱かせた。