足りない情報
あかねさんの情報収集、そして未来選手の告白によって、いくつかの「ノイズ」の正体は見え始めた。しかし、本当の戦いは、まだこれからだ。
メインアリーナでは、個人戦の準決勝が全て終了し、間もなく男子団体戦の準決勝が始まろうとしていた。応援団の声援や、選手たちのウォーミングアップの音が、体育館全体に響き渡っている。しかし、私たちの意識は、その喧騒から少しだけ離れた場所にあった。観客席の一角、少しだけ人の少ない場所を見つけ、私たちは腰を下ろす。
部長は、まだ興奮冷めやらぬといった様子だが、その表情には、決勝戦への緊張感と、そしてあかねさんがもたらした情報への懸念が浮かんでいる。
「…ったく、青木れいかって奴、どこまで卑怯な真似しやがるんだ。しおりの作戦メモを盗んで、それを月影のコーチに渡すだなんて、普通じゃ考えられねえぞ。未来選手が何も知らなかったってのが、せめてもの救いだが…。」
部長の声には、抑えきれない怒りが滲んでいる。風花さんの件が、彼の脳裏をよぎっているのかもしれない。
「はい。彼女の行動は、単なる嫌がらせの範疇を超えています。明確な目的を持って、私と、そしておそらくは第五中学校卓球部を陥れようとしている。その背後に、何があるのか…。」
私は、冷静に分析する。しかし、その声の奥には、青木れいかという存在に対する、冷たい怒りと、そして彼女の姉である青木桜選手との決勝戦への、特別な意味合いを感じ始めていた。
「しおり…大丈夫?決勝戦、そんな状態で…。」
あかねさんが、心配そうに私の顔を覗き込む。彼女の手には、先ほど未来選手から得た情報も加わった、びっしりと文字が書き込まれたノートが握られている。
「未来選手も、コーチに利用されてただけみたいだし…でも、そのコーチとれいかさんが繋がってたなんて、本当に許せないよ!」
彼女の言葉にも、強い憤りが込められている。
「…あかねさん。未来選手からの情報は、非常に重要です。特に、青木桜選手に関する情報。彼女は、以前、桜選手と対戦した経験があると言っていましたね。その時のデータ、何か思い出せることはありますか?」
私は、あかねさんに促す。未来選手自身がこの場にいれば直接聞けるのだが、今は彼女も心を落ち着かせているだろう。あかねさんが未来選手から聞き取った内容が、今の私たちにとっては生命線となる。
部長も、隣で始まった団体戦の熱戦には目もくれず、真剣な表情であかねさんを見た。
「そうだ、あかね。未来の奴、桜について何か言ってなかったか?あいつの卓球、俺も何度か見たことあるが、正統派で、隙がねえ。だが、それだけじゃねえはずだ。」
彼の言葉通り、青木桜選手は「常勝学園のエース」。その実力は、折り紙つきだ。
あかねさんは、ごくりと唾を飲み込み、ノートをめくりながら話し始めた。
「うん…未来選手が言うにはね、青木桜選手は、本当に基本技術が完璧で、特にフォアハンドのドライブの威力と安定性は、中学生レベルを遥かに超えてるって。バックハンドも堅実で、なかなか崩れない。それに…」
あかねさんは、そこで一度言葉を切り、少しだけ声を潜めた。
「未来選手が一番印象に残ってるのは、桜選手の『精神的な強さ』と、『相手の心を折るのが上手い』ってことだったみたい。」
「相手の心を折る…?」部長が、訝しげに眉をひそめる。
「うん。なんかね、すごく冷静沈着で、相手がどんなに良いプレーをしても、全く動じない。そして、相手が一番嫌がるコースやタイミングで、じわじわと、でも確実にポイントを重ねて、精神的に追い詰めていくのが得意なんだって。気がついたら、相手は自分の卓球ができなくなって、自滅していく…みたいな。」
あかねさんの言葉に、私は、幽基未来選手が私に対して使ってきた戦術との類似性を感じ取っていた。ただし、桜選手の場合は、それを「正統派」の技術の中で、より洗練された形で実行するのだろう。
(…青木桜。高い基本技術と安定性。そして、相手の精神を支配するクレバーさ。作戦メモの情報が、彼女にも渡っている可能性も考慮しなければならない。これは、幽基未来選手との戦い以上に、困難な戦いになるかもしれない。)
「それにね」と、あかねさんが続ける。「未来選手、最後にポツリと言ってたんだ。『桜さんは、いつも何かを隠しているような気がする。本当の全力は、まだ誰も見たことがないのかもしれない』って…。」
その言葉は、私たちの間に、重い沈黙をもたらした。
青木桜。彼女は、ただの「正統派の強者」ではないのかもしれない。
その「正統派」の仮面の下に、一体何を隠しているのか。
私の「異端の白球」は、その底知れない強敵に対し、そしてその背後に蠢く悪意に対し、どのような答えを導き出すのだろうか。
決勝戦までの短い時間、私たちは、この断片的な情報を元に、最大の難関へと挑むための作戦を練り始めなければならなかった。
そして、その作戦会議に、あの幽基未来選手自身が、思いがけない形で加わることになるのを、私たちはまだ知らなかった。