異質者の彷徨
コーチの告白は、私の心に、鉛のような重りを投げ込んだ。
静寂しおりという選手の、あの底知れない「異端」な卓球。その一部が、私の知らないところで、私の勝利のために、歪められた形で利用されようとしていたという事実。そして、その情報源が、彼女と同じ学校の生徒かもしれないということ。
私は、卓球が好きだ。ただ、純粋に。相手と、自分と、そしてボールと向き合う、その瞬間が好きだ。そこに、こんな汚れたものが介在していたなんて。
(…どうすればいいの?このまま、黙っていることなんてできない。コーチを…月影女学院を裏切るようなことになっても…。)
頭の中で、様々な感情が渦巻く。コーチへの失望、静寂さんへの申し訳なさ、そして、何よりも、自分の信じてきた卓球が汚されたかのような、深い悲しみ。
私は、気づけば、重い足取りで、体育館の喧騒の中を彷徨っていた。どこへ向かうという目的もない。ただ、この息苦しい感情から逃れたい一心で。
そして、無意識のうちに、私の足は、トーナメント表が張り出されている一角へと向かっていた。そこには、まだ多くの選手や関係者が集まり、熱心に結果を確認している。
ぼんやりとトーナメント表を眺めていると、女子シングルスの勝ち上がりの線が目に入った。頂点へと続くその線の先には、当然、静寂しおりさんの名前があるのだろう。そして、その隣には、彼女の決勝の相手の名前が。
(…静寂さん。彼女は、決勝で誰と戦うんだろう。そして、彼女は…私がこんなことを知ってしまったなんて、夢にも思わないだろうな。)
その時だった。
「――幽基選手?」
不意に、背後から落ち着いた、しかしどこか聞き覚えのある声がかかった。
振り返ると、そこには、第五中学校の顧問の先生らしき人物が、心配そうな表情で私を見つめていた。そして、その隣には…静寂しおりさんと、あの三島あかねさんがいた。三人は、ちょうど男子のトーナメント表を確認し終え、こちらへ向かってくるところだったのかもしれない。彼女たちの表情には、先ほどの試合の熱気と、そして仲間への信頼のようなものが浮かんでいる。
「あ…こ、こんにちは…。」
私は、咄嗟に言葉を失い、ぎこちなく頭を下げた。今、一番会いたくない相手かもしれない。しかし、逃げるわけにはいかない。私のスポーツマンシップが、それを許さない。
「幽基さん、大丈夫ですか?少し、顔色が悪いようですが…。先ほどの試合、素晴らしい戦いでしたね。静寂も、あなたの強さに敬意を表していましたよ。」
顧問の先生が、私の緊張を解きほぐすかのように、優しく、そして穏やかな口調で声をかけてくれる。その言葉には、勝者としての驕りも、敗者への憐憫もない。ただ、純粋に、卓球を愛する者同士の、温かい眼差しがあった。
(…この先生…。そして、静寂さんと、三島さんも…なんだか、月影とは雰囲気が違う…。)
私の心に、ほんのわずかな、しかし確かな「何か」が灯ったような気がした。それは、警戒心とは異なる、もっと人間的な温かさに対する、ほんの少しの興味と、そして羨望。
私は、意を決した。ここで、全てを話そう。それが、私の、そして私の愛する卓球に対する、最低限の誠意だ。
「あのっ…!」
私は、気づけば、三人の前に進み出ていた。そして、深々と頭を下げた。
「…ごめんなさいっ!本当に、ごめんなさい!」
私の声は、震えていた。
「え…?み、未来選手…?どうしたの、急に…。」
あかねさんが、驚いたように私を見つめる。しおりさんは、相変わらず表情を変えないが、その静かな瞳が、じっと私のことを見据えている。その瞳の奥には、非難ではなく、ただ純粋な「なぜ?」という問いかけの色が見えた。部長さんも、驚いた顔でこちらを見ている。
私は、顔を上げることができないまま、言葉を続けた。
「私の…私のコーチが、今日の静寂さんとの試合の前に、静寂さんの作戦メモの情報を…おそらく、不正な形で手に入れていました。そして、それを元に、私に指示を出していました。私は…私は、そのことを、ついさっきまで、何も知らずに…。」
言葉が、途切れ途切れになる。悔しさと、申し訳なさと、そして自分自身への不甲斐なさで、胸が張り裂けそうだった。
「その情報をコーチに渡したのは…おそらく、第五中学校の生徒です。青木れいか、という名前を聞きました。」
「私は、そんなつもりじゃ…ただ、自分の力で、正々堂々と戦いたかったんです!なのに…私の知らないところで、こんなことが行われていて…本当に、ごめんなさい…!そして、第五中学校の顧問の先生にも…ご迷惑をおかけしました…!」
涙が、頬を伝って落ちるのが分かった。
しおりさんとあかねさん、そして部長と顧問の先生は、私の突然の告白に、ただ黙って耳を傾けていた。
重い沈黙が、私たちを包み込む。
やがて、顧問の先生が、静かに、しかし温かい声で言った。
「…幽基さん。顔を上げなさい。君が、今、こうして正直に話してくれたこと、その勇気に感謝する。君自身は、何も悪くない。君は、最後まで素晴らしい戦いを見せてくれた。」
その言葉には、偽りのない誠実さと、そして私を気遣う優しさが込められていた。
続いて、しおりさんが、静かに口を開いた。その声は、いつも通りの平坦なものだったが、その奥には、ほんのわずかな、しかし確かな「理解」のようなものが感じられた。
「…幽基選手。あなたが、そのことを知らなかったというのは、あなたの言葉と、そして今日のあなたの戦いぶりから、私には分かります。」
しおりさんは、淡々と続けた。
「そして、あなたが、今、こうして私たちに真実を伝えに来てくれたこと。その勇気と誠実さに、私は敬意を表します。あなたのスポーツマンシップは、あなたのコーチのそれよりも、遥かに高いレベルにあると思います。」
その言葉は、私の心に、温かい光のように差し込んできた。
「…ありがとう…ございます…。」
私は、かろうじてそう答えるのが精一杯だった。
部長さんも、腕を組みながら、しかしその表情は以前よりもずっと柔らかく、私を見ていた。
「…未来選手、か。お前も、色々大変だったんだな。だが、その勇気、俺も尊敬するぜ。」
彼の言葉には、不器用ながらも、誠実な響きがあった。
あかねさんも、目に涙を浮かべながら、私にそっとハンカチを差し出してくれた。
「未来選手…辛かったね…。でも、話してくれて、ありがとう。」
第五中学校の、この人たち…。
顧問の先生の、全てを包み込むような温かさ。
静寂しおりさんの、冷徹なようでいて、その奥にある深い洞察力と、相手の本質を見抜く力。
部長さんの、不器用だけど真っ直ぐな、仲間への想い。
そして、三島あかねさんの、太陽のような明るさと、心からの優しさ。
(…こんなチームで、こんな仲間たちと、一緒に卓球ができたら…もしかしたら、私も…。)
私の心の中に、これまで感じたことのない、ほんのりとした温かい光と、そして、ほんの少しの「憧れ」のような感情が芽生え始めていた。それは、この息苦しい状況の中で見つけた、小さな、しかし確かな希望の光なのかもしれない。
私の「異端の白球」との戦いは終わった。しかし、私の本当の戦いは、ここから始まるのかもしれない。
そして、その戦いの先に、もし、この第五中学校のような場所があるのなら…。
そんな、思いを胸に抱きながら、私は、改めて深く頭を下げた。