異端者と茜色
市町村大会優勝後、学校での日常は、以前とは少しだけ変わった。
卓球部内では、私の異質なスタイルと実力への注目が高まり、部員たちの私に対する視線や接し方も変化した。顧問も、都道府県大会に向けて私への指導を真剣に考えるようになったようだ。
しかし、卓球部以外の学校生活、特にクラスでの私の状況に、大きな変化はなかった。休み時間や昼休み、クラスメイトたちはそれぞれグループを作り、楽しそうに話したり、笑ったりしている。
私は、その輪の中に加わることはない。自分の席で、静かに本を読んでいるか、窓の外を眺めているか、あるいはただ静かに座っているだけだ。
誰かに話しかけられることも、自分から誰かに話しかけることもない。私と他のクラスメイトの間には、見えない壁が存在している。
それは、私が意図的に築いている壁であり、同時に、過去の出来事から来る、他者との距離感でもあった。
…彼らは、彼らの世界で生きている。私は、私の世界で。
そんなある日の昼休み。私は、いつものように自分の席で静かに本を読んでいた。
クラスの中は、弁当を広げる音、楽しげな話し声、笑い声で賑わっている。その喧騒の中に、一人の生徒の視線が、私に注がれているのを感じた。
視線を辿ると、少し離れた席に座っている女子生徒と目が合った。彼女は、クラスの中でも明るく、誰にでも分け隔てなく接するタイプの生徒だと認識している。名前は…確か、三島 あかねさん。
あかねさんは、私と目が合うと、ニコッと微笑んだ。そして、何かを迷うような素振りを見せた後、弁当を持ったまま、私の席の方へ歩いてきた。
…なぜ、こちらへ?
私の心に、僅かな戸惑いが生まれた。彼女のようなタイプの生徒が、私に近づいてくることは、これまでなかったからだ。
あかねさんは、私の席の隣まで来ると、少し遠慮がちに尋ねた。
「あの…隣、いいかな?」
私は、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
隣? 席の隣、ということだろうか。私は、本から目を離し、あかねさんの顔を見た。彼女の顔には、悪意は感じられない。ただ、純粋な優しさ、あるいは好奇心のようなものが浮かんでいた。
「…どうぞ。」
私は、簡潔に答えた。感情を乗せない、平坦な声。
あかねさんは、ホッとしたような表情で、私の隣の席に座った。そして、弁当を広げ始めた。
「ありがとう。」あかねさんは、微笑んだ。「いつも一人でいることが多いから、気になってたんだ。」
…気になっていた?
私は、あかねさんの言葉に、再び僅かな戸惑いを覚えた。誰かに「気にかけてもらう」という感覚が、私にはあまり馴染みがなかったからだ。
過去の出来事以来、私は他者との間に壁を作り、一人でいることを選んできた。それが、最も安全な生き方だと判断したからだ。
あかねさんは、気にすることなく、楽しそうに弁当を食べ始めた。そして、時折、私に話しかけてくる。
「静寂さんって、卓球部なんだよね? 市町村大会で優勝したんだって? すごいね!」
卓球のこと。市町村大会のこと。学校の中で、私の卓球部での活躍が知られていることを、改めて認識する。
「…はい。卓球部です。」
私は、簡潔に答える。卓球のことなら、少しは言葉が出てくる。
「やっぱりすごいんだね! テレビとか出るのかな?」
テレビ? そこまで考えたことはなかった。私の目的は、全国優勝。その過程で、どのような注目を集めるかは、特に重要な問題ではない。
「…分かりません。」
私は、正直に答えた。
あかねさんは、私の短い応答にも気にせず、屈託のない笑顔を見せる。
「そっかー。でも、応援してるね! 全校集会で表彰されるのかな?」
全校集会での表彰。そこまで考えが及んでいなかった。もしそうなれば、また多くの視線が集まることになるだろう。それは、少し、いやだな。
「…分かりません。」
再び、同じ答えを繰り返す。
あかねさんは、私の短い応答に少し困ったような顔をしたが、すぐにまた笑顔になった。
「そっか。でも、静寂さん、いつも本読んでるよね。本好きなの?」
話題が変わった。卓球以外の話題。私にとって、それは少し難しい。
「…はい。」
本は読む。それは、外界の喧騒から逃れ、自分の世界に没頭するための手段の一つだ。
「どんな本読むの? おすすめとかある?」
あかねさんは、本当に私と「仲良くしたい」と思っているようだった。彼女の言葉には、悪意や下心は感じられない。ただ、純粋な好奇心と、私という存在への興味があるだけだ。
私は、少し考えた。おすすめの本。どのような本を勧めるべきか。私の読む本は、他の人にはあまり馴染みがないかもしれない。
…この状況は、一体どういうこと? 彼女は、私に友好的であろうとしている。なんで?その目的は…?
無意識のうちに、警戒心が、あかねさんの言動や表情を分析しようとしている自分に気づく。しかし、明確な悪意は見当たらない。ただ、純粋な善意だけが感じられる。
「…特に、ありません。」
私は、結局、無難な答えを選んだ。
あかねさんは、私の短い応答にもめげず、その後もいくつか話しかけてきた。学校のこと、授業のこと、好きな食べ物のこと。
私は、そのほとんどに、簡潔な相槌や短い言葉でしか返せなかった。コミュニケーションにおける、自身の不器用さを改めて認識する。
昼休みが終わるチャイムが鳴る。あかねさんは、弁当箱を片付けながら言った。
「あ、もう終わりか。またね、静寂さん。」
「…はい。」
私は、小さな声で答えた。
あかねさんは、立ち上がると、私の顔を見て、もう一度ニコッと微笑んだ。その笑顔には、優しさと、そして少しの、諦めのようなものも含まれているように見えた。彼女は、自分の席に戻っていった。
私の隣の席には、あかねさんの気配だけが残っていた。そして、私の心には、予期せぬ「話しかけられた」という出来事が、小さな波紋を投げかけていた。
…彼女は、なぜ、私に…
分析できない感情。彼女の行動の目的。私には、理解できない領域だった。しかし、あかねさんという存在が、私の「一人でいることが多い」日常に、一筋の、茜色の光を投げかけたことは確かだった。
それは、私の孤独を際立たせると同時に、これまで閉ざしてきた心の扉の隙間に、微かな風を送り込んだようだった。