蠢く影
……終わった……?
まだ実感が湧かない。ただ、胸の奥深くから、熱い何かがこみ上げてくるのを感じた。
ネットの向こう側で、幽基選手がゆっくりとラケットを置き、そして深々と頭を下げた。
その表情は、もう見えない。
私もまた彼女に向き直り、震える声で「…ありがとうございました」と頭を下げた。
体育館が、割れんばかりの拍手と歓声に包まれる。
「しおりちゃーーーん!!!」
「やった!やったよ!勝ったんだよ!!!」
あかねさんが、ベンチから飛び出すようにして駆け寄ってくる。
その顔は、涙と笑顔でぐしゃぐしゃだ。
彼女は私の両手を掴み、自分のことのように飛び跳ねて喜んでいる。
その純粋な喜びのエネルギーが、私の消耗しきった体に、不思議と力を与えてくれる。
「…あかねさん…」
「すごかった!本当にすごかったよ、しおりちゃん!あの最後のドライブ!幽基選手、全然反応できてなかったもん!それに、あのYGサーブも、カットのモーションからのドライブも、全部全部、すごすぎたよぉ…!」
彼女は、興奮のあまり言葉がまとまらないといった様子で、しかしその瞳は、私への最大限の称賛と信頼で輝いていた。
「…ありがとうございます」
私は、彼女のそのストレートな感情を受け止め、ほんの少しだけ、口元を緩ませた。
「ですが、あかねさんのサポートと、データ分析がなければ、ここまで来ることはできませんでした。」
それは、偽りのない、私の本心だった。
「ううん!そんなことないよ!全部、しおりちゃんの実力だよ!私は、ただ見てただけだもん!」
あかねさんは、首を横に振りながらも、嬉しそうに頬を赤らめている。
私たちは、互いに支え合うようにして、ゆっくりとコートを後にする。
観客席からは、まだ称賛の拍手が鳴り止まない。
「部長先輩のところに、早く報告しに行こうよ、しおりちゃん!」
あかねさんが、私の手を引きながら、控え場所の方へと促す。
「きっと、部長先輩も、すごく喜んでくれてるよ!」
控え場所の、少し離れた位置。
そこには、腕を組み、じっとこちらを見つめている部長の姿があった。
その表情は、いつものように快活なものではなく、どこか真剣で、そして私の戦いぶりを、その一挙手一投足を見逃すまいとしていたかのような、深い眼差しだった。
私とあかねさんが近づくと、彼はゆっくりと、そして力強く頷いた。
その瞳の奥には、言葉にならないほどの、称賛と安堵と、そして仲間としての誇りが、複雑に、しかし確かに輝いていた。
「…しおり。よくやったな」
部長の声は、静かで、しかし重みがあった。
「あの幽基未来を相手に、あんな試合ができるとは…正直、俺の想像を超えてたぜ。お前の技術と胆力、本物だよ」
「…ありがとうございます、部長」
私は、彼の言葉を受け止め、そして、意を決して口を開いた。
試合の勝利の余韻に浸る間もなく、私の脳は、既に次の「戦い」へと移行していたからだ。
「部長。報告と、共有しておかなければならない情報があります」
私のその、いつもとは異なる真剣な声のトーンに、部長とあかねさんの表情が、わずかに緊張する。
私は、一度深く息を吸い込み、そして冷静に、しかし確信を持って告げた。
「…今日の試合、特に第一ゲームにおいて、私の作戦メモの情報が、幽基未来選手側に漏洩していた可能性が極めて高いと分析します」
「なんだと…!?」
部長の声が、鋭くなる。
「あのメモが?一体、どうして…!」
私は、淡々と続ける。
「第一ゲーム、幽基選手のサーブレシーブの選択、そして私の弱点を突くような攻撃パターンは、私のメモに記述した内容と、かなり高いレベルで一致していました。そして、私が最もレシーブミスをしやすいと自己分析していたサーブを、彼女が的確に選択してきたことも、その傍証となります」
私の言葉に、部長は苦虫を噛み潰したような顔をし、あかねさんは唇をきつく結んだ。
「そして、もう一つ」
私は、さらに重要な情報を付け加える。
「今日の試合開始前、コートに入る直前、月影女学院の応援席に、見慣れた制服の生徒がいるのを確認しました。第五中学校の卓球部員…以前、部室で私に対して否定的な言動を取った、あの女子生徒の一人です」
「なっ…!うちの部員が、相手の応援席に…?まさか、そいつが…!」
部長の顔から血の気が引いていく。
風花さんの件が、彼の脳裏をよぎったのかもしれない。
「…現時点では、彼女が直接メモを提供したという確証はありません。しかし、状況証拠として、その可能性は極めて高いと言わざるを得ません。あかねさんのノートが一時的に紛失し、その後、不自然な形で返却された一件。そして、私の作戦メモの紛失。これらは、おそらく同一人物、あるいは同一グループによる、計画的な情報収集活動と、その漏洩行為であると分析します」
私の言葉は、部室の隅に重く、そして冷たい沈黙をもたらした。
勝利の喜びも束の間、私たちは、卓球台の外に潜む、より陰湿で、そして卑劣な「敵」の存在を改めて認識させられたのだ。
私の「異端の白球」は、コートの中だけでなく、その外でも、見えない悪意との戦いを強いられている。
そして、その戦いは、まだ始まったばかりなのかもしれない。
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