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異端の白球使い  作者: R.D
県大会女子準決勝
108/674

僅かな差

 体育館の緊張感が、最高潮に達しようとしていた。


 サーブ権は未来選手へ。


 スコアは9-7、ここを彼女に取られれば9-8。


 一気にプレッシャーがかかる場面だ。


 未来選手から放たれたサーブは低く、私のフォアサイドを切るか切らないかの絶妙なコース。


 私はなんとかラケットに当てて返すが、ボールはやや山なりになってしまった。未来選手はすかさずそれを深く、回転の強いカットで私のバックへ。


 …誘われている?


 ここから、互いの神経をすり減らすような、カットの応酬が始まった。


 未来選手のカットは、回転量、コース、そして高さが絶妙に変化し、私に決め手の一打を打たせてくれない。


 私もまた、無理に強打せず、時にはスライス気味の低いボールで、時には高くループさせたボールで応戦し、彼女の守備を揺さぶろうと試みる。


 体育館に響くのは、ボールがラバーに食い込み、そして静かに、しかし鋭く回転を帯びて相手コートに返っていく音だけ。


 一球一球に、互いの全ての読みと技術が凝縮されているかのようだ


 数度のラリーが続いた後、ついに、幽基選手のカットがほんの僅かに、本当に僅かに台から浮き、私のフォアサイドへと、まるで吸い寄せられるようにやって来た。


 …来た!チャンスボール!


 私の体は、反射的に強打の体勢に入る。全身のバネを使い、強烈なフォアハンドドライブを叩き込む――そのモーションに入った、まさにインパクトの寸前だった。


 その瞬間。


 ゾクリと、私の背筋を得体の知れない悪寒が駆け抜けた。


 …ダメだ!


 言葉にならない、しかし絶対的な確信にも似た直感が、私の脳髄を直接殴りつけた。


 …このままドライブを打てば、点を、落とす――!


 幽基選手の表情は変わらない。


 しかし、その静かな瞳の奥に、まるで全てを見通しているかのような、底知れない何かが潜んでいる。


 …これが、私が感じていた「仕掛け」…? 私が強打すると読んで、その一点に全ての神経を集中させている?


 思考するよりも早く、私の体は勝手に動いていた。


 強打のために振り上げたはずのラケットは、インパクトの瞬間に、まるで意志を持ったかのようにその角度を変え、ボールの威力を完全に殺す。


 そして、ボールの下側を薄く、しかし鋭く擦るようにして――無意識に、カットを選択していた。


 それは、攻撃的なドライブとは似ても似つかない、ふわりとした、しかし強烈な下回転のかかった短いカット。


 私の体から放たれたそのボールは、ネットをギリギリに越え、未来選手のフォア前サイドライン際に、まるで木の葉が舞い落ちるかのように、静かに、そして不規則にバウンドした。


 強打を予測し、後ろに下がって完璧な体勢で待ち構えていた未来選手の体が、大きく泳ぐ。


「くっ…!?」


 彼女は慌てて前に踏み込もうとするが、その予測外のボール、そして強烈な下回転の変化に伸ばしたラケットはボールに届かない。


 ボールは、静かにツーバウンドした。


 静寂 10 - 7 幽基

 ……え?


 私自身何が起こったのか、一瞬理解が追いつかなかった。


 ただ、あの直感。


 あの、肌を刺すような確信。


 それに私の体が、私の意志を超えて反応した。


 私の「異端」は、時に私自身にも予測できない動きをする。


 控え場所から、あかねさんの「やったぁーっ!」といという声が、割れんばかりに響いてきた。


 幽基選手は、初めて、そのポーカーフェイスに明確な驚きの色を浮かべ、そして、ネット際に落ちたボールと私を交互に見つめている。


 彼女の纏う湖のような雰囲気が、大きく波立っているのが見て取れた。


 …今のは、何…?私の体が、勝手に…?


 ゲームポイント。


 そして、この第四ゲームのマッチポイント。


 だが、私の心は、勝利への高揚よりも、先ほどの不可解な一打と、依然として底が見えない未来選手の「異質さ」への、新たな戦慄に包まれていた。


 体育館の全ての視線が、中央の台に注がれている。息をのむ音すら聞こえてきそうな静寂。


 幽基選手は、深く息を吸い込み、ゆっくりと構える。


 その表情からは先ほどの明確な驚きは消え、いつもの静謐さが戻りつつあるように見える。


 しかしその指先が、ほんのわずかに震えているのを、私は見逃さなかった。


 彼女もまた、動揺しているのだ。


 私自身、まだ心臓が早鐘を打っている。


 あの無意識のカット、あれは一体何だったのか。


 私の知らない私が、そこにいるというのか。


 未来選手から放たれたサーブは短く、ネット際に止まるかのような、回転の少ないボール。


 揺さぶりをかけてきている。


 私は慎重に、しかし確実にツッツキで深く、彼女のバックサイドへ返球した。


 ここから再び、地獄のようなカット戦が始まった。


 互いに動揺を抱えながらも、一度ラリーが始まれば、体は勝手に最適解を求める。


 幽基選手のカットは、依然として鋭く、そして執拗だ。


 私のフォアへバックへ、時に短く時に深く、まるで私の精神を削り取るように、的確にボールを送り込んでくる。


 私もまた、焦りから強打に持ち込もうとする誘惑を必死に抑え、低い姿勢を保ち、回転を読み、ボールを拾い続ける。


 一球、また一球と、ラリーは長く、長く続いていく。


 …まだだ。まだ、終わらない…!


 …このボールを、絶対に落とせない…!


 互いの意地と意地が、小さな白いボールを介して激しく衝突する。


 観客席も、今はただ固唾を飲んでこの壮絶な打ち合いを見守っている。


 あかねさんと部長の声援すら、今は遠くに聞こえる。


 何球続いただろうか。


 数十球は超えたかもしれない。私の肺は酸素を求め、足は鉛のように重い。


 幽基選手もまた、肩で息をしているのが見て取れる。


 その、長い長いラリーの果て。


 幽基選手のカットが、ほんのわずか、本当に紙一重高く、そして私のバックサイドへと、少しだけ甘く入った。


 …来た…!


 それは、疲労とプレッシャーが生んだ、ほんの一瞬の隙。


 私の体は、もはや意識よりも速く反応していた。


 踏み込みと同時に、腰を鋭く回転させ、ラケットをコンパクトに、しかし最大限の力で振り抜く。


 狙うは相手のフォアサイド、台の角を抉るような、厳しいコース。


 裏ソフトラバーがボールを捉え、強烈な摩擦を生み出す。


 放たれたボールは、美しい弧を描きながら、猛烈なトップスピンを帯びて、未来選手のコートへと飛翔する


 ――バックハンド・ループドライブ!


 幽基選手は、最後の力を振り絞るようにしてそのボールに飛びつく。


 彼女のラケットが、ボールにかすかに触れたのが見えた。


 しかし、私のドライブに込められた回転は、彼女の懸命のブロックを弾き飛ばし、ボールはコートの端を捉え、そして、体育館の床へと跳ねた。


 ………静寂。


 静寂 11 - 7 幽基


 私の体から、一気に力が抜け落ちる。


 膝から崩れ落ちそうになるのを、なんとか堪えた。


 ……終わった……?


 まだ実感が湧かない。


 ただ、胸の奥深くから、熱い何かがこみ上げてくるのを感じた。


 ネットの向こう側で、未来選手がゆっくりとラケットを置き、そして深々と頭を下げた。


 その表情は、もう見えない。


 私もまた、彼女に向き直り、震える声で「…ありがとうございました」と、頭を下げた。


 体育館が、割れんばかりの拍手と歓声に包まれる。


 あかねさんが泣きながら駆け寄ってくる。


 幽基未来。彼女の「異質さ」その全てを、私はまだ理解できていない。


 試合中に覗かせた、もう一人の私が居るような感覚。


 分からないことがまだある。


 だが、今はただ、この勝利の余韻に、浸っていたかった。


 私の「異端」が、あの強大な「異質さ」を、ほんの少しだけ、上回ったのだから。

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