鉄壁の砦
インターバル終了を告げるブザーが、体育館の緊迫した空気を切り裂いた。
私は、あかねさんの力強い眼差しと、部長の信頼のこもった頷きを胸に、静かにコートへと戻る。
セットカウント2-1。あと1セット取れば、私の勝利。
しかし、目の前の幽基未来という選手は、まだその全てを見せてはいない。彼女の「異質さ」の奥底には、まだ計り知れない何かが潜んでいる。
(…第三ゲーム、彼女は私の『異端』な変化と奇襲に、再び対応しきれなかった。しかし、彼女の精神はまだ折れていない。この第四ゲーム、彼女は必ず、より純粋な、そしてより洗練された『カットマン』として、私に挑んでくるだろう。作戦メモの情報は、もはや彼女にとって意味をなさない。ここからは、さらに神経をすり減らせる、技術と精神力のぶつかり合いだ)
私の思考は極限まで研ぎ澄まされ、目の前の戦いに全神経を集中させる。
サーブ権は幽基選手。
彼女は、これまでのどのゲームとも異なる、静かで、しかし底知れない覚悟を秘めたような雰囲気で構えた。
その瞳は、もはや私個人の分析ではなく、ただ卓球台と、その上を飛び交うであろう白いボールだけを見据えているかのようだ。
彼女の纏う、静かで深い湖のような雰囲気は、嵐の前の静けさのように、不気味なほどの落ち着きを取り戻していた。
幽基選手から放たれたサーブは、私のバックサイド深くに、極めて低い弾道で、そして強烈な下回転を伴って滑り込んでくる、彼女の真骨頂とも言えるカットサーブだった。
それは、これまでの試合で見せたどのサーブよりも、回転量、コース、そして何よりも、そこに込められた「絶対にここから流れは渡さない」という意志の力が、段違いだった。
私は、そのサーブに対し、ラケットを裏ソフトの面に持ち替え、体を深く沈み込ませ、全身のバネを使って、強烈なトップスピンをかけたループドライブで応戦する!
ボールは、高い弧を描き、未来選手のバックサイド深くへと吸い込まれていく。
ここから、壮絶なカットとドライブの応酬が始まった。
幽基選手は、私のドライブに対し、一歩も引かない。
台から少し距離を取り、美しいフォームから、次々と深い下回転カットを繰り出す。そのカットは、第二ゲームまでに見せたような、意表を突く変化や、攻撃的な鋭さはない。
ただ、ひたすらに低く、深く、そして回転量が尋常ではない。まるで、鉄壁の城壁のように、私の攻撃をことごとく跳ね返してくる。
(…これが、彼女の本当の『カット』。変幻自在の奥にある、絶対的なまでの守備力。そして、この回転量…私のドライブの威力を、確実に削り取っていく)
私は、それでも攻め手を緩めない。フォアへ、バックへ、ミドルへ。コースを散らし、回転量に変化をつけ、ドライブを打ち込み続ける。
しかし、幽基選手は、驚異的なフットワークと、そして何よりも、その「異質」なまでのボールタッチで、私の全ての攻撃を拾い上げ、さらに回転を増幅させて返してくる。
彼女のラケットから放たれるカットボールは、まるで生きているかのように、私のコートで不規則に沈み、あるいは僅かに横滑りする。
それは、私のアンチラバーが生み出す「死んだボール」とは対極にある、粘り気と生命力に満ち溢れた「生きたボール」だった。
ラリーが、5本、10本、15本と続いていく。
体育館の観客たちは、息をのみ、この壮絶なまでのカットラリーの応酬を見守っている。
私の荒い息遣いと、シューズが床を擦る音だけが、コートに響き渡る。
私の額からは、滝のような汗が噴き出し、ユニフォームが肌に張り付く。
足が、鉛のように重くなっていくのを感じる。体力は、確実に限界へと近づいていた。
(…まずい。このままでは、私の体力が先に尽きる。しかし、彼女のカットは、あまりにも鉄壁すぎる。どこかに、隙はないのか…?)
私は最後の力を振り絞るように、さらに回転量を増したドライブを、未来選手のフォアサイド深くに叩き込んだ。
幽基選手はそれに対しても、完璧な体勢でカットに入る。
しかしその瞬間、私は見た。
ほんの僅か、コンマ数秒にも満たない、彼女のラケット角度の「迷い」を。
そして、カットされたボールの回転が、ほんのわずかに、いつもよりも「浅い」ことを。
…来た!
私は、その僅かな変化を見逃さない。
これが、最後のチャンスかもしれない。
私は、残された全ての力を右足に込め、床を強く蹴り、そして、その甘くなったカットボールに対し、ラケットを裏ソフトの面で、体を一直線にするような、渾身のフォアハンドスマッシュを、未来選手のバックサイド、オープンスペースへと叩き込んだ!
ボールは、閃光のように、未来選手の横を通り過ぎていった。
しかし――。
未来選手は、そのスマッシュコースをまるで予測していたかのように、ほんの数センチだけ体を横にずらしていた。
そして、彼女の差し出したラケットのラバーが、私の渾身のスマッシュの威力を、まるでスポンジが水を吸うように完全に吸収し、そしてボールは、ネット際に、ぽとりと力なく、そしてあまりにも無慈悲に、二度バウンドした。
静寂 0 - 1 幽基
(…読まれていた。私の、最後の攻撃すらも。そして、あの返球……何か、私がまだ理解できない「仕掛け」が、そこにはある)
私の体から、力が抜け落ちていく。
幽基未来。彼女の「異質さ」は、まだ、私の分析の、遥か先にあるのかもしれない。
この第四ゲーム、そしてこの試合の行方は、もはや誰にも予測できない、混沌の領域へと突入しようとしていた。




