紙一重の奪い合い
この体育館の全ての視線が、今、私という「異端」に注がれている。
私の卓球は、相手の常識を、そして卓球のセオリーそのものを嘲笑うかのように、その上を行く。
サーブ権は幽基選手。
彼女の表情には、先ほどのYGサーブとその後のスマッシュの衝撃がまだ色濃く残っている。
しかし、その瞳の奥には、崖っぷちに立たされた者の、最後の抵抗とも言える、鋭い光が宿っていた。
彼女は、このままでは終われない。その無言の気迫が、コート全体に張り詰めた緊張感をもたらす。
(…相手の精神状態、極度の集中と、捨て身の攻撃に転じる可能性。そして、作戦メモの情報も、もはや彼女にとっては意味をなさないだろう。純粋な、彼女の「異質さ」そのものが、最後の牙を剥いてくる)
私の脳は最後の最後まで、冷静に相手を分析する。
そしてその分析に基づいて、私の取るべき最適解を導き出す。
幽基選手が放ったサーブは、これまでのどのサーブとも異なり、極めて速く、そして回転のほとんどかかっていないナックル性のロングサーブだった。
コースは、私のフォアサイド、エンドラインぎりぎり。
私の体勢を崩し、一発でエースを狙うか、あるいは甘い返球を誘い、そこを強打しようという、まさに捨て身の一打。
そのサーブには、彼女の最後の全てが込められているかのような、悲壮なまでの鋭さがあった。
私は、そのサーブに対し、後退はしない。
むしろ、一歩台に踏み込みながら、ラケットをスーパーアンチの面に瞬時に持ち替え、ボールのバウンドの直後、ライジング気味に捉える。
そして相手のサーブのスピードを利用し、コンパクトなスイングで、ネット際に低く、そして短く、まるで吸い付くようにコントロールされたデッドストップを、未来選手のフォア前に送り込んだ!
それは、相手の速攻の意図を完全に読み切り、その勢いを逆手に取った、まさに「異端」のレシーブ。
そして、この土壇場での、最もリスクの高い、しかし最も効果的な選択。
「…っ!」
幽基選手は、自身の渾身のロングサーブが、これほどまでに完璧に処理され、しかも攻撃的なデッドストップで返ってくるとは予測していなかったのだろう。彼女の体が、一瞬、硬直する。
しかし、彼女は諦めない。
驚異的な反射神経で前に踏み込み、その低いボールを、ラケットを横から滑り込ませるようにして、強引にフリック気味に持ち上げてきた!
ボールは、ネットをギリギリ越え、私のミドルへと、やや山なりになって飛んでくる。その執念が、ボールに乗り移ったかのような、粘りの一球。
(…まだ、終わらないという執念。しかし、その返球は、甘い)
私は、その浮き球を見逃さない。
ラケットを裏ソフトの面に再び持ち替え、体を素早く台に入れ込み、そして、ネット際での、極めて短いモーションから、手首のスナップを最大限に利かせる。
さらに鋭いサイドスピンをかけたショートドライブを、未来選手のバックサイド、サイドラインぎりぎりへと、叩きつけた!
それは、大きなラリー戦ではなく、前陣での、コンマ数秒の判断と技術が交錯する、息詰まるような細かいやり取り。
私の「異端」な変化と、それを支える「王道」の技術が、凝縮された一打。そして、このセットの、最後のラリー。
未来選手は、その予測不能なコースと、鋭いサイドスピンに、完全に体勢を崩された。
彼女の伸ばしたラケットは、ボールにかすることなく、虚しく空を切る。
ボールは、相手コートの端に、まるで吸い込まれるようにしてバウンドし、そして静かに転がっていった。
一瞬の静寂の後、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。
静寂 11 - 8 幽基
セットカウント 静寂 2 - 1 幽基
第三ゲーム終了。
私は、ついにこの難解なパズルの一端をこじ開け、リードを奪うことに成功した。
私は、ラケットを握りしめたまま、深く、深く息を吐き出す。
全身の力が抜け、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
しかし、それ以上に、この未知の強敵、幽基未来という「異質」を、そして作戦メモの情報漏洩という絶望的な状況を、自らの「異端」と「進化」で乗り越えつつあることによる、強烈な手応えが、私の全身を駆け巡っていた。
未来選手は、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
彼女はゆっくりとベンチに戻り、しかし、表情からはまだ終わらない、終わらせないという彼女の、静かで深い闘志が、垣間見えた気がした。
私は、あかねさんが待つベンチへと戻る。
「しおりちゃん!やったじゃない!すごい!本当にすごいよ!」
あかねさんが、目に涙を浮かべながら、しかし満面の笑みで私を迎えてくれる。
「…まだです、相手はまだ諦めていません」