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異端の白球使い  作者: R.D
異端者
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異端者

 真新しい制服の感触が、肌に僅かな違和感をくれた。濃紺のブレザーに、控えめなリボン。鏡に映る自分は、これから始まるという新しい世界の住人らしかった。

 しかし、その姿はどこかよそよそしく、鏡の向こうにいるのが、本当に私なのか判断しかねた。 


 小学三年生のあの日以来、私の知っている「私」は、ずいぶんと形を変えてしまったからだ。この家は、祖父母が私のために用意してくれた場所。父はここにはいなく、ここで私は一人で暮らしている。あの日の音に怯えることは、もうない。家の中は、静寂だけがあった。



 朝食を一人で済ませる。食パンを一枚、トースターで焼いて、バターを塗る。簡単なことだ。誰かに話しかけられることも、誰かの気配に気を張ることもない。

 ただ、定められた手順を踏むだけだ。母は、実家で祖父母と一緒に暮らしている。時々連絡は取るが、顔を合わせる機会は少ない。これで良いのだ。それぞれの安全な場所で、それぞれの生活を営む。それが、今の私たちにとって、最適な形なのだから。

 家を出て、春の陽射しの中を歩く。真新しい制服に身を包んだ子供たちが、親と一緒に中学校へと向かっている。彼らの顔には、期待と不安が混じり合った、分かりやすい感情が浮かんでいた。その横を、私は一人で歩く。私には、そのどちらもなかった。これから始まる生活に、期待も不安も抱けない。ただ、定められた手順を踏むだけだ。


 中学校の門をくぐると、人の波に飲まれた。体育館へ案内される指示の声。周囲のざわめき。どれもこれも、私の五感を通して情報として処理されるだけで、感情を揺さぶることはない。体育館の椅子に座り、背筋を伸ばす。周囲の新入生たちは、保護者らしき大人たちと楽しげに話している。保護者席を見上げる。私の席には、誰も座っていない。それは、予測済みのことだ。寂しさのような感情は、湧き上がらない。ただ、事実として認識する。

 私の思考は、いつも現実から一歩引いた場所にある。目の前の光景を、観察対象として捉える。周囲の同級生たちが、時折顔を見合わせて笑ったり、緊張で強張ったりしているのを見る。彼らは、この新しい環境に、自身の感情を素直に乗せている。私には、それが遠い世界の出来事のように感じられた。感情は、常に最適な判断を妨げるノイズとなる。私は、あの日、そう結論付けた。

 入学式が終わり、新しいクラスへと移動する。自己紹介。名前を言って、簡単な挨拶をするだけだ。他の生徒たちは、自分の趣味や特技を話したり、少し緊張した様子を見せたりしている。私の番が来る。

静寂(しずか)しおりです。よろしくお願いします。」

 簡潔に、そして感情を乗せずに言う。視線が、一瞬、私に集まるのを感じた。しかし、すぐに次の生徒に移る。私は、その短い時間で、周囲の生徒たちの顔色、話し方、仕草から、いくつかの情報を読み取る。彼らが私に抱いたであろう印象も、ある程度予測できる。

 担任の先生の話も、必要な情報だけを選別して頭に入れる。新しい教科書、配布物、そして部活動の案内。廊下には、色とりどりの勧誘ポスターが貼られていた。剣道部、バスケ部、吹奏楽部…。その中に、手書きで「卓球部」と書かれた、少し古びたポスターを見つけた。体育館の入り口付近では、部員らしき生徒たちが数人、ラケットケースを手に、新入生に声をかけている。大きな声で、部活動の魅力を伝えようとしている。

(…卓球部。)

 私の、もう一つの居場所。否、私にとって唯一の、偽りのない場所だ。父の支配から逃れ、祖父母にもらったこの家で一人暮らしを始めた私にとって、全てを懸けられる場所。

 小学三年生のあの日、祖父母の家で埃をかぶっていた卓球台を見つけた時、知ったのだ。ここだけが、私の全てを受け入れてくれる場所なのだと。祖父母は、この家を私のために用意してくれた。私が、安心して卓球に打ち込めるように。

 卓球。それは、私にとって聖域だ。物理法則、そして駆け引きと戦略が支配する、完璧に制御可能な世界。体躯の不利も、内面の不安定さも、ラケットを握れば関係ない。使えるものは何でも使う。それは、この世界で生き抜くために、私が学んだ唯一のルールだった。自己肯定感など、存在しない。だからこそ、勝利という形でしか、私は自身の価値を証明できない。

 放課後、私は迷わず卓球部へ向かう生徒たちの流れに加わる。体育館の隅から聞こえる、規則正しい打球音。汗の匂い。卓球台の緑。ネットの白。ボールのオレンジ。私にとって、最も落ち着く色彩、最も心地よい音、最も安らげる空間。

(…勝つ、勝って勝って勝ち続ける、負けは許されない)

 誰にも理解されないかもしれない。異質だと嘲笑されるかもしれない。それでも構わない。この異質なスタイルこそが、体躯で劣る私が勝利を掴むための最適解だと、私は結論付けている。小学三年生から、誰にも知られることなく磨き続けてきたこの技術。コーチに反対されても、私は私の信じる道を突き進む。秘匿したまま、誰にも知られずに、私は強くなる。家に置いてある高性能なマシンと、私だけで。

 中学校の入学式という一日は、滞りなく過ぎていく。周囲の期待や希望とは裏腹に、私の心は静かだった。しかし、その静寂の奥底では、卓球への強い情熱と、過去から続く影が、確かに存在している。

 家へ帰る道を一人で歩く。真新しい制服が、まだ体に馴染まない。空は、少しずつ夕暮れの色に染まり始めていた。美しい光景だ。しかし、私の心は、どこか冷めている。家に帰っても、誰もいない。静寂があるだけだ。

(…悪夢は、どこにでも潜んでいる。そして、私が紡ぐ悪夢は、ここから始まるのかもしれない。)

 祖父母にもらった、私の家に着き、鍵を開ける。冷たい空気。誰もいない静寂。それが、私の日常だ。

 私は自分の部屋へ向かう。そして、卓球台のある部屋のドアを開ける。そこにあるのは、私と、私の卓球。

 ここから始まる。私の、中学卓球の物語。「異端の白球使い」の、始まりの物語が。

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