くろねこのみちびく先は
「あれ? ここ、どこ……?」
コウタくんが目を覚ますと、そこはきれいなきれいなお花畑の真ん中でした。
色とりどりの花が咲き乱れ、また、薄桃色に染まったお空には、黄色い雲がいくつも浮かんでいます。
なんて不思議な場所なのでしょう。
もしかしてぼくは夢を見ているのかな? とコウタくんは思いましたが、お布団に入った記憶がありません。
幼稚園に行く支度をしていた事までは覚えています。しかしそのあとの事がさっぱり思い出せないのでした。
(えーっと、もうすぐようちえんバスが来ちゃうって急いでて、それで……)
コウタくんがうんうんうなりながら思い出そうとしていると。
雲と雲の隙間を縫うように、大きな緑色の蛇のようなナニカが飛んでいくのが目に入りました。
その姿は、前にママに読んでもらった絵本に出てきた「りゅう」に、とてもよく似ていました。
その絵本は、小さな男の子が不思議な世界を冒険するお話でした。
コウタくんもまた、この不思議な場所を冒険したくて仕方がありません。
コウタくんは思い出す作業を一旦やめ、お花畑を出ると、周囲を探索し始めました。
虹色の羽の蝶々。
金色のカラス。
上に乗るとトランポリンのようにぼよんぼよんと弾む、大きなキノコ。
川のほとりで、まるで二枚の殻を口のように上下にパカパカと開けて合唱する二枚貝達。
この場所は見た事のないモノ達でいっぱいです。
つい夢中になって、どんどん遠くへと行ってしまいます。
二枚貝達の合唱を聴きながら川沿いを歩いていると、なにやら赤い橋が見えてきました。
その橋はアーチ型をしており、いわゆる太鼓橋と呼ばれるものでした。
近くまで行って見てみると、橋はとても長く、その先は靄が掛かっていてよく見えません。
ですが、時折楽しげな笑い声が聞こえてきます。
靄の先に何があるのか、コウタくんはとても気になりました。
しかし何故でしょう、あの先からは、なにかぞわぞわとしたものを感じます。
あの靄に食べられてしまうような、もう二度と戻って来られないような──そんな漠然とした怖さがありました。
それでもコウタくんは、好奇心を抑える事が出来ませんでした。
橋に一歩、足を踏み出そうとした、その時。
『にゃーん……』
どこからか猫の鳴き声が聞こえてきました。
その声はとても聞き覚えのあるものでした。
「もしかして、クロ……!?」
コウタくんは橋に下ろそうとしていた足を戻し、後ろを振り返りました。
クロはコウタくんのおうちで飼われている黒猫です。
コウタくんと同じように、クロもこの不思議な場所に迷い込んで来てしまったのでしょうか。
「クロ、どこにいるの? ぼくだよ、でておいで!」
すると川から離れたところにある茂みから、再び『にゃーん……』という鳴き声が聞こえてきました。
コウタくんが追いかけていくと、そこにはもうクロの姿はありませんでした。
しかし少し先にある別の茂みががさりと揺れ、声の主が顔を出しました。
そこにいたのはまぎれもなくクロでした。
それなのに、クロはコウタくんに近づいてきません。
それどころか、橋とは反対方向へと逃げていってしまいました。
「あ、まってよクロ!」
コウタくんもその後を追います。
低木の下をくぐったり、草むらの中に隠れたり、木に登ったり。
クロは一向に捕まりません。
それでいて、コウタくんがクロを見失いそうになると、その場にお座りしてコウタくんが追いついてくるのをじっと待っているのです。
そしてコウタくんが追いつきそうになると、再び逃げてしまうのでした。
そんな風に追いかけっこを繰り返すうち、いつの間にやらトンネルの前へとやって来ていました。
山のふもとをまっすぐに掘って作られたこのトンネルは、とても長く、中は真っ暗でした。
ですがトンネルの奥の奥、そのまた奥にぽつりと白い光が見えました。おそらくあそこが出口なのでしょう。
クロはトンネルの中へするりと入っていってしまいました。
「だめだよ、クロ! もどってきて!」
しかしクロは戻ってきません。
どうやらこのトンネルに入ってクロを捕まえるしかないようです。
コウタくんは一歩一歩、おっかなびっくりトンネルの中へと足を踏み入れました。
入り口から離れていくにつれ、暗闇は濃さを増し、やがて自分の手足すら見えなくなっていきました。
何も見えない中を進むというのはとても怖いものです。
コウタくんはトンネルの壁に右の手をつきながら、壁伝いに慎重に進みました。
トンネルの壁には砂ぼこりが付着しているらしく、ざらざらとしています。手が汚れてママに叱られてしまうかもしれませんが、それを気にしている余裕などありませんでした。
「クロ、どこー……?」
クロの返事はありません。
せめてクロがこちらを向いてくれれば、その緑色の目がキラリと光っていたかもしれませんが、残念ながら出口の白い光以外、光るものは何もありませんでした。
──もしかしたらクロはもう、出口にたどり着いてトンネルを出ていってしまったのかも……。
そう思い、コウタくんは出口の白い光を目指して歩き続けました。
するとだんだんと白い光が大きくなっていき、出口が近づいてきました。
しかし不思議な事に、出口には白い光が溢れるばかりで、その先の風景がちっとも見えてこないのです。
そしてついに、コウタくんは出口へとたどり着きました。
トンネルの外は真っ白のまばゆい光に包まれ、何も見えません。
それでも、真っ暗闇の中ずっと心細かったコウタくんにとって、その光はとてもあたたかくて、安心出来るもののように感じました。
コウタくんはすぐさま光の中へと飛び込みました。
するとそれと同時に、全てを思い出しました。
コウタくんがこの不思議な場所に来る直前の事。
そして──……。
(あれ? どうして忘れちゃってたんだろう。だって、クロはもう──……)
コウタくんの体が白い光に包まれると同時に、コウタくんの意識もまた、光の中へと吸い込まれていくのでした──……。
「──……ウタ、コウタ!」
ママの呼ぶ声に目を覚ますと、そこは壁も天井も真っ白な空間でした。
コウタくんが横たわっているベッドも真っ白です。
そしてまだ意識がぼんやりとしているコウタくんの顔を、ママが涙目で覗き込んでいます。
「ごめんね、コウタ! あの時、ママが急かしたばっかりに……!」
ママはベッドに寝たままのコウタくんを優しく抱きしめました。
そう、それは今朝の事。
コウタくんは朝の支度に時間がかかり、『もうすぐ幼稚園バスが来ちゃうから早く!』とママに急かされたのでした。
そして慌てて靴を履いて外に出ようとした際に転んでしまい、頭を強くぶつけてしまったのでした。
不運にも打ち所が悪く、このまま命を落としてしまうかもしれないという危険な状態だったのです。
「ずっと目を覚まさないからすごく心配してたのよ! もうすぐパパも来るからね。ああ、本当に良かったわ……!」
(そっか、ぼく、ずっと夢を見てたんだ……)
今までの事は全てただの夢だったのか。そう思うと、コウタくんはちょっぴり寂しい気持ちになりました。
「……あら? その手、いつの間にそんなに汚れたのかしら?」
ママがコウタくんの右の手のひらを指差しました。
そこにはざらざらとした砂のようなものが付いていました。
コウタくんにはそれが何なのかすぐにわかりました。
これはあのトンネルの壁を触った時に付いたものだ、と。
あの不思議な場所は、決して夢なんかではなかったのです。
「……あのね、ママ。ぼくね、クロに会ったよ」
「──え?」
「クロがね、ちがうほうに行こうとしてたぼくを、あかるく光ってるほうにつれてきてくれたの。そしたら起きれたの」
「……そっか、きっとクロが助けてくれたんだね。今度お礼を言わないとね」
「うん!」
それから数日後、コウタくんは後遺症が残る事もなく、無事に退院する事が出来ました。
家に帰ったコウタくんは、リビングに飾られた小さな写真の前で手を合わせました。
そこに写っていたのは、緑色の目の黒猫でした。
「ありがとね、クロ。『まだこっちに来ちゃだめ』って、教えてくれてたんだよね……?」
コウタくんの問いかけに答えるように、どこか遠くのほうから『にゃーん……』という鳴き声が聞こえてきた気がしました──……。