9.リリアン
それから、エマは上級生たちに寮の内装のことを聞いた。玄関を開けると目の前が階段になっており、右側に談話室(テレビやソファ、テーブルなどがある大きなリビングのようなスペース)と防音の自習スペース。左はキッチンとダイニング、ランドリーがあって、一番奥は寮母室だ。つまり、一階は、寮母室以外は共用スペースになっている。二階と三階にそれぞれ四部屋あり、二階は三年生の一人部屋、三階は一、二年生の二人部屋だ。
エマは、教室棟も一年の教室が最上階だったことを思い出して嫌な気分になった。教室にも自分の部屋にも、階段で最上階まで登らなきゃならないのはかなり面倒だ。エレベーターがあればいいのに、この整った設備で、エレベーターだけがない。教室棟には一基だけあるが、原則生徒は利用禁止だと説明を受けた。
そんな話をしていると、外から二人分の話し声が聞こえてきた。内容は聞き取れないが、女性にしてはやや低いアルトの声と、高くもなく低くもない心地が良い高さの澄んだ声。二人とも落ち着いた声だ。間もなくして、玄関扉が開かれた。
「ただいま、帰ったよ」
「ただいま帰りました」
外から聞こえてきた声が、なんの隔たりもなくはっきりとエマの耳に届いた。
「おかー」
「おかえりなさい」
紅と伊緒がほぼ同時に挨拶を返した。遅れて皆が続く。
「おかえりなさい! 英智様!」
「姫ちゃん、会長もいるわよ」
姫唯は自分の元<姉>の英智のことしか見えていないようだ。姫唯は伊緒に注意された。
「会長さんもおかえりなさい」
姫唯の声は無感情だった。パンフレットを見ていた時も、姫唯は会長の話題に参加していなかった。この世界の全てに「可愛い」を感じる姫唯だったが、どうやら会長にだけはそれは当てはまらないらしい。確かに「可愛い」の顔ではない。薄幸そうな美人だ。しかし、姫唯のその態度には何かがあるのだと勘繰らずにはいられなかった。
少しして二人が談話室に入ってくると、景が立ち上がったので、エマもそれに倣った。
「おかえりなさい、こちら、私の<妹>です」
「はじめまして、各務エマです」
「はじめまして、君がミサに来なかった子だね。僕は上神英智。よろしく」
英智を見て、誰しもが最初に注目するのは、確実に彼女の目だろう。瞳が、青いのだ。景も青いが、景ぼ瞳は青よりも灰色の方が近い。
「ハハ、目、気になる?」
「あっすみません」
「ああ、いいんだよ。皆そうだからね。母の話じゃ、遠いご先祖様にヴァンパイアハンターがいると、稀に青い目の子供が生まれるらしい。ハンターと違って僕はただ目が青いだけの人間だから、日中はサングラスなしじゃ外にいられないけどね」
英智は自身の制服の胸ポケットに掛けてあるサングラスを指して言った。流れで名札を見ると、それには青い線が引いてあった。英智の胸ポケットには色々なものが付いている。白百合の徽章と、赤いアネモネの中に「副会長」と書かれている徽章。
彼女と話していると、姫唯が王子様だと言った理由が良く分かった。見た目や声が中性的で、アシンメトリーのウルフヘアは独特な雰囲気を醸し出している。
「はじめまして。わたくし、谷淑子と申します。よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします」
あの生徒会長だ。消え入りそうなほど透明感のある白い肌に、絹のような髪。
「エマさん。貴女が入寮ミサに来なかったので、景は全寄宿生と全寮母、そして教員や理事長の前で、一人で祈りを捧げました。ただでさえ景は立場上目立ってしまいます。あらぬ噂を立てられることもあります。保健室からの連絡が届いたのはミサが始まってからでした。体調不良になってしまうのは仕方のないことですが、他人にも迷惑が掛かることをよく考え、これからは早めに判断と連絡をしてください。わかりましたか?」
「はい。気を付けます」
仮病だということを知られているかどうかわからなかったが、淑子の静かな圧迫感にエマは委縮して返事をするほかになかった。ましてや、他の人のように仮病だと言おうものなら寮から追い出されてしまうのではないかと、エマは思った。人前で叱られる羞恥心に、エマは自分の顔が赤くなっていないか心配になった。ゆりが部屋にいて本当によかった、エマは心底そう思った。
「では、新しくシオン寮にいらっしゃった皆様に改めてお伝えします。まずは、ご入学、ご入寮おめでとうございます。これからは、個々の行動がご自身の評価になるのはもちろんのこと、ひいては皆様の<姉妹>の評価、寮の評価に繋がります。気品と思いやりを大切に……ゆりさんはどちらに?」
「髪色とカラコン叱られたから拗ねて部屋いったよー」
「……そう。では、伊緒」
「ふふ、ゆりちゃんのことは任せてくださいね」
「てか寮のことも寮長の愛佳に任せればよくねー」
紅が欠伸をしながらそう言った。淑子に臆することなく意見が言えるのは、同級生だからだろうか。
「……そうね。ごめんなさい。差し出がましかったわね」
「谷」という苗字は珍しくない。しかし、エマは淑子が何者か見当がついた。学校という場でありながら、ただひたすらに体裁を気にしているような、言葉遣いと一挙手一投足。全国から「お嬢様」が集まるカラニット女学院。そして、淑子と英智が来る前に紅が言っていたことを考えると、淑子が谷グループの令嬢だということは明瞭だった。紅は、エマを「淑子と英智くらい大変そう」だと言っていたが、エマはそこらに明るいわけではなかったので、英智の家を推察することはできなかった。
淑子は落ち込んでいるような素振りは見せていなかったが、英智が淑子を慰めるように、何も言わずに背中を軽く叩いた。
「ただいま!」
不意に開かれた扉と、この空気に似つかわしくない明るい声に、エマはそちらを見る。その声の主は、黒のロングヘアに金色のメッシュやインナーを入れている。この人物がさっき言ってたギャルの寮長だと言うことが一目見てわかった。彼女はローファーを脱いでシューズクローゼットにしまうと、談話室の入り口で止まった。
「って、あれ? なんか空気悪くね」
「愛佳おかー。今淑子の説教が終わったとこー」
「え、ひでち真面目過ぎ。ウケる」
「ウケません」
「おかえり、真理愛ママは?」
英智が問う。
「センセーと話してた! もうすぐ帰ってくると思う。一年とエヴァちに会いたくて先帰ってきちゃった」
愛佳はそう言うと談話室を見回し、エマと目が合った。
「あ、エマちだ! 土井愛佳、シオンのりょーちょーやってまーす。よろ!」
「よろしくお願いします」
ギャルだ。エマは、生まれて初めて見る古典的なギャルに、淑子とは全く違う意味で圧倒された。髪だけでなく、ややメイクもしているようだ。しかしこんなにもギャルであるのに、メイクは薄い。エマは不思議に思った。
そして確か寮長は、寮母が寮生の成績や素行を見て選ぶはずだ。ということは、つまり——。
「エマち考えてることバレバレでウケる。こー見えて愛佳リリアンだからね、言っとくけど」
「そうなんですね」
エマは反射的に愛佳の胸ポケットを見た。そこには、淑子や英智と同じ、白百合の徽章が輝いている。
リリアンとは、成績や素行が優秀で模範的だと認められた人にだけ与えられる称号だ。リリアンになると一部の校則が適用外になる。寄宿生の場合は、寄宿生活が模範的であると認められなくてはならないが、寄宿生のリリアンは寮規則も適用外。つまり、愛佳はリリアンなので染髪やメイクが許されているのだ。
「愛佳センパイ今日も可愛いー!」
「マジ? ひめち最高すぎ。ひめちもちょー可愛いかんね!」
「Awwwww! ギャル、cccccccute!」
エヴァが興奮して頬を紅潮させ、大きな目を更に開いて愛佳を見つめている。
「おお、エヴァちすげー。目デカすぎ可愛すぎ。てか愛佳アイドルになったみたいでウケる」
エヴァは「ギャル」「cute」「カワイイ」しか喋らなくなり、それを見た愛佳は涙が出るほど笑っていた。
・吸血鬼 vampire
遥か昔から存在している、人間に最も近い生物。処女の生き血を吸い続ければ半永久的に生きながらえることができる。害獣の扱いをされてきたが、近年は吸血鬼を保護し、共存を目指すべきだと訴える人間も多く出てきている。
・ヴァンパイアハンター
吸血鬼を駆除する者たちのこと。肌や髪、目の色などが極めて白に近い。
・<姉妹>
カラニット女学院高等学校寄宿寮に存在する制度。一年生の<妹>に二年生の<姉>が付き、マンツーマンで寮生活を一年間サポートする。<姉妹>である一年間、同室で過ごす。
・リリアン
カラニット女学院高等学校に存在する制度。第二学年終了時に成績や素行が優秀で模範的であると認められると与えられる称号。寄宿生であれば、寄宿生活面でも認められなければならない。リリアンには一部の校則や寮規則が適用されない。
・各務エマ Kakumu Ema
本作の主人公。カラニット女学院高等学校一年A組。シオン寮。宗教を毛嫌いしている。祖母と母もカラニット出身である。父とは死別しており、カラニットの理事長である母親とは不仲。景の<妹>。
・来栖景 Kurusu Kei
カラニット女学院高等学校二年生。シオン寮。白く長い髪に灰色の瞳を持つが、顔立ちは日本人。ヴァンパイアハンター。エマの<姉>。淑子の元<妹>。
・和泉絢 Izumi Aya
エマのクラスメイト。シオン寮。友好的で天真爛漫。吸血鬼迫害を疑問視している。姫唯の<妹>。
・星野姫唯 Hoshino Kii
カラニット女学院高等学校二年生。シオン寮。セミロングの黒髪をリボンでツーサイドアップにしている。何にでも「可愛い」と思う気質がある。絢の<姉>。英智の元<妹>。
・今見ゆり Imami Yuri
エマのクラスメイト。シオン寮。入学早々、校則で禁じられているカラコンやメイク、染髪をしてくる不良少女。伊緒の<妹>。
・塔島伊緒 Toujima Io
カラニット女学院高等学校二年生。シオン寮。おっとりしているが、Sっ気がある。色気のあるお姉さん。ゆりの<姉>。紅の元<妹>。
・安曇千穂 Azumi Chiho
カラニット女学院高等学校二年生。シオン寮。長い前髪とマスクで顔のほとんどを覆っている。根暗オタクで陰謀論者。エヴァの<姉>。愛佳の元<妹>。
・エヴァ・ローズ Ava Rose
カラニット女学院高等学校二年生。シオン寮。二年生だが、留学生で寄宿生としては一年目なので、千穂の<妹>である。
・谷淑子 Tani Hideko
カラニット女学院高等学校三年生。生徒会会長でリリアン。シオン寮。谷グループの令嬢で、体裁を強く意識しているので、学校内でも寮内でも気を抜かない。景の元<姉>。
・上神英智 Niwa Eichi
カラニット女学院高等学校三年生。生徒会副会長でリリアン。シオン寮。瞳が青く、日光などの強い光に弱いため、リリアンになる前からサングラスの着用が許可されている。本人曰く、瞳が青いのは先祖にヴァンパイアハンターがいるから。姫唯の元<姉>。
・土井愛佳 Doi Aika
カラニット女学院高等学校三年生。シオン寮の寮長でリリアン。明るく友好的なギャルだが、ギャルにしてはメイクが薄く、髪も一部しか染めていない。千穂の元<姉>。
・阿閉紅 Atoji Koh
カラニット女学院高等学校三年生。シオン寮。見た目や振る舞いが幼いため、「アカちゃん」というあだ名が付けられているが、言葉遣いや性格は幼くない。無表情で感情の起伏が乏しい。伊緒の元<姉>。
・伊東蘭花 Itou Ranka
一年A組の担任教師の女性。担当科目は地理歴史。
・箱田メアリ Hakoda Mary
カラニット女学院理事長。若々しく美しい黒髪の女性。先祖がカラニット女学院の創設に関わっている為、理事会役員の家系である。株式会社KAKUMUの代表取締役であり、エマの母親。五年前に夫と死別。